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礼拝メッセージより
心霊写真
子どもの頃からテレビをよく見ていた。そしてテレビからいろんな情報を仕入れていた。テレビの言うことは正しいことなのだと思っていた。大予言とかUFOとかも本当のことだと思っていた。
でも最近のテレビはおかしいと思うことが多い。悪者というレッテルを貼られた者にたいしては徹底的にやっつける。カルト集団のやっていることはどんなにおかしいか、間違っているかというようなことを繰り返し放送する。あなたがこれをやらないと先祖がたたるとかなんとかいうような人間の恐怖心を煽って、人をだまして人を縛り付けて金儲けをしている、というような批判を繰り返ししていた。
そうかと思うと同じ放送局で別の時間になると、心霊写真だと言ってここに霊が写っていますとか言って、霊能者という人が登場して、これはここで殺された人が成仏できないでいる、何か訴えているとかいうようなことを、まるでそれが何の疑いもない真実であるかのように放送している。
カルト集団がやるとおかしなやつらだと言う、それと同じ事をテレビでやっているじゃないかという気がして仕方ない。そんなのをまじめに見る方がおかしいということなのかもしれないが。
悪霊
聖書によく出てくる悪霊って何なんだろ。そんなのがいるのだろうか。悪霊なんて聞くと心霊写真だと言われるような物に写っている、なんだか得体の知れないものというようなものを想像してしまう。テレビの見過ぎか。
でも悪霊がテレビのいうように、どこかにいてたまたま通りすがりに取り憑くようなものならば、背中に取り憑いてちょっと悪さをするというようなもので、霊能者と言われるような人に頼めば取り除けるようなものならば話しは簡単だ。
誰かが悪霊についてこんなことを書いていた。悪霊とは、人を神から引き離し、不安と空しさ、絶望と虚無に追い込む勢力。人を憎しみと争い、さらに殺人の狂気へと駆り立て、人と人、神と人との関係を断ち切る強力な闇の力、だと。
やっぱりよく分からないという気がするけれど、人間が病気にしたり苦しめたりする原因があって、見えないなにか、見えない存在、あるいは見えない力によって人は苦しめられている、そんな存在のことを悪霊と言ったのだと思う。そしてその悪霊を追い出したり、その力を取り除くことで苦しみから解放されると考えられてきたということだろう。
ファリサイ派の人達もそんな悪霊払いをしていたようだ。しかし同じようなことをしているイエスに対しては、あいつは悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している、と言い出した。
ちなみに、ベルゼブルとは旧約時代の偶像の神であるバアル神を「バアル・ゼブル」(偉大なバアル)と呼んでいたのを、イスラエル人が「バアル・ゼブブ」(蠅のバアル)と嘲笑して呼んでいたのが定着して、当時は悪魔のかしらをベルゼブルと呼んでいたそうだ。
自分達は神の力で悪霊を追い出しているが、イエスは悪霊の頭によって悪霊を追い出している、イエスなんてのは悪霊の使いなんだ、という風に論争をしかけて来たと言うよりも、いちゃもんをつけてきたということなんだろうなという気がしている。ファリサイ派は自分達に従わないだけではなく批判もしている、そんなイエスに対して、群衆はこの人はダビデの子ではないか、メシアではないか、なんて言い出してきた。そこで嫌味のひとつも言ってやろうということだったんじゃないかと思う。
神の国
しかしイエスはサタンがサタンを追い出せば内輪もめであって、そんな国は成り立たないと言った。悪霊を追い出すのは神の霊によってしか追い出せない。そして神の霊によって悪霊を追い出しているのだとしたら、それは神の国がここに来ているということだとイエスは言う。神の国はもうここに来ているというのだ。
神の国、天の国、天国、いろんな言い方があるが、それらは死んだ後に行くところというような感じがする。けれどもイエスが来てそこで神の力で悪霊を追い出しているところはもうそこが神の国である、天国であるというのだ。死んだ後でも死ぬ前でも、神の支配があるところ、神の力が及ぶところ、それこそが神の国なのだ。
その神の国がもうここに来ていると言うのだ。もう神の支配下にあるのだ。イエスが伝道を始めた初めの言葉は、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさいということだった。
当時は、障がいを持っている人たちは悪霊に取りつかれていて、悪霊のせいでそうなっていると考えられていたそうだ。そして悪霊を追い出すような儀式をすることもあったらしい。
イエスがどうやってこの人を癒したのかはよくわからない。よく分からないけれども、神の力が、神の支配がここにやってきた。そしてこの人は癒された。悪霊の実体はよくわからないけれども、神の支配に入っていなかった者が神の支配の下に入った。神の国がやってきた、そこで癒されたというわけだ。
国が変わって国籍が変わったようなものかもしれない。
国籍が変わったからと言っても急に私たちが変わるとは限らない。神の国がやってきて、神の国の住人になったと言われても、私たちの本質はそうそう変わらない。私たちは依然として不安もあり空しさを感じることもある。憎しみを持つこともある。そういったものを持っているのは事実だ。けれどもそれはいまだに闇の力に支配されているからではないのだ。確かに罪はある、けれども私たちはもうすでに神の支配下にある、神の国にいるのだ。だからいつ悪霊に脅かされるかもしれない、というような思いに怯える必要はないのだ。
大変な目に遭って苦しむこともいっぱいある。失敗して嘆いたり落ち込んだりすることもいっぱいある。しかし決して私たちがひとりぼっちにはならない、決して神から見放されることがない、神がいっしょにいてくれないことは決してない、それが神の国なのだ。そんな神の国がやってきたのだ。
赦し
続けてイエスは、すべての罪は赦される、人が犯す罪や冒涜はどんなものでも赦されると言う。しかし、霊に、つまり聖霊に対する冒涜は赦されないという。また、人の子に言い逆らう者、つまりキリストに言い逆らう者は赦されるが、聖霊に言い逆らう者は赦されないという。
何だかよく分からないという気もするが、誰かが、聖霊を冒涜するとか聖霊に逆らうというのは、すべての罪は赦されるということを認めことじゃないか、と言っていた。すべての罪は赦されるということを信じない、認めない者にとっては、赦されているという安心と喜びはないわけだ。本当に赦されるか、こんなことまでは赦されないんじゃないか、こんな自分は赦されないんじゃないかという恐れが出てくる。そういう者が聖霊を冒涜し言い逆らう者なのだということかもしれない。
ネットを見ているとある人は、聖霊に言い逆らうとは、自分の善悪の知識で決め付けるということ、だと言っていた。
僕は自分は駄目だ、こんな自分では駄目だと思う気持ちが強い。目に見える成果がある時にはあまりそう思わないけれど、目に見える成果が見えないような時には特にそう思う。人数も献金も増やし、いろんな行事をいっぱいする、そんな風に教会を大きくできる牧師は認められるけれど、逆に教会を小さくするばかりの自分は駄目なんだ、という気持ちが強い。こんな自分では駄目なんだと自分で自分を責める気持ちが強い。
でもそれは自分が勝手に判断して勝手に自分を責めている、そんな自分を勝手に断罪している、勝手に自分を拒否している。勝手に自分を否定している。
こんな自分は駄目だ、こんな自分では駄目だ、そんな風に勝手に決め付けること、実はそれこそが聖霊に言い逆らうということなのかもしれないと思う。
抱きしめたい
マルコによる福音書14章に、一人の女の人が石膏の壺を壊して、その中に入っていたナルドの香油をイエスの頭にかけたという話しがのっている。マタイによる福音書26章にもある。
数百万円の価値のある高価な香油を全部かけてしまうというとんでもない行為だったようだ。その場にいた人達は勿体ないことするなと叱ったらしいが、イエスはよいことをしたのだ、言ってこの女の人の行為を賞賛した。
イエスはこの女の人を全面的に受け入れた、全面的に肯定したのだと思う。
全ては赦されている、というのは全てを受け止められ肯定されているということに通じているのではないかと思う。
この世ではそんなことはありえないことだと思う。自分のことを考えても、この自分の全てを赦すとか、全てを肯定するなんておかしなことだと思う。間違いだらけの自分だし、だらしない駄目な自分だ。
しかしイエスは全てを赦すと言っている。この世の理屈に合わないことだ。それこそ神業、神にしかできないことのようだ。
ナルドの香油を自分にかけた、イエスはその行為に対して赦すとは言っていない。そうではなく良いことをしてくれた、と言った。どうしてそれが良いことなのかずっと分からなかった。イエスが良いことと言ったので良いことなんだろうと思うようにしていたけれどやっぱりよく分からなかった。でもある時、これは普通に考えたら全くよいことじゃなくて滅茶苦茶なことだったんだと思った。普通だったら何馬鹿なことをやってるんだ、どうしてこんな勿体ないことをするのかと非難されて当然のことだったんじゃないか、なのにイエスはこれは良いことだと言ったんじゃないかと思った。いわば全てを赦す言葉だったんじゃないかと思った。そう思うとこの「良いことだ」と言う言葉はすごい言葉だなと思うようになった。すごく嬉しい言葉だと思った。
すべては赦されている、すべて受け止められている、すべて肯定されている、そのことを信じなさい、大丈夫心配しなくていい、そう言われているような気がしている。
だから何も心配しないで私の腕に飛び込んできてほしい、あなたを抱き締めたいんだ、イエスは笑顔でそう言ってくれているに違いないと思う。