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礼拝メッセージより
戸惑い
洗礼者のヨハネの弟子が獄中にいるヨハネにイエスのことを話した。その弟子の報告を聞いてヨハネは随分戸惑ったようだ。
ヨハネは律法を守り、悔い改めにふさわしい実を結ぶようにと言い、罪の赦しを得させるバプテスマを受けるようにと言っていた。そして自分の後にメシアが現れると言っていた。イエスがバプテスマを受けたときには、自分はその方のくつにひもを解く値打ちもないと言っていた。
ヨハネにとってメシアは、強い力を持って世を裁く、悪を懲らしめ世の中から罪を取り除く、そんなイメージを持っていた、そんなメシアを期待していたのではないかと思う。
しかしそのメシアがイエスなのかどうか、それが分からなかった。いろんな情報は耳に入ってきていた。ヨハネの弟子達もいろんなことを報告したようだ。しかしイエスの行動や言葉は、ヨハネの持っていたメシアのイメージとは随分違っていたのだろうと思う。
問い
そこでヨハネはイエスのもとに自分の弟子を派遣してイエスに問いかける。来るべき方はあなたなのですか、と。
イエスはその問いには肯定も否定もしない。そうだとも、違うとも言わない。ただヨハネの弟子たちに、自分で見聞きしたことを、つまりイエスの周りで起こっている出来事を伝えなさいと言った。それは「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」そのことをヨハネに伝えなさい、と言うのみだ。そして「わたしにつまずかない人は幸いである」とも。
ヨハネはイエスが来たるべき方なのかどうか、メシアなのかどうかを聞こうとした。メシアはどうかを判断したかったわけだ。しかしイエスはどっちとも言わず、自分のまわりに起こっている現実を知るようにと言った。
イエスは自分がメシアはどうかということを判断する必要もない、と言いたかったのではないかと思う。メシアだという見方で見ることも、メシアでないという見方でみることもしないで貰いたかったんじゃないだろうか。メシアだからとかメシアじゃないからということではなく、真実の自分の姿、ただありのままの自分の姿を見て欲しかったんじゃないかと思う。
つまり先入観なしに、ありのままの自分と出会って欲しいということだったんじゃないかと思う。
イエスはヨハネの弟子達に対して自分のことを言うことはしなかった。俺がメシアだ、どうしてそんなことも分からないのか、ちゃんとヨハネに伝えておけ、とは言わなかった。そうではなく自分のことをじっくり見るように、そこで起きていることをしっかり見聞きするようにと言う。
メシアだったら従おうとか、メシアじゃないなら従わないというように、メシアという称号が付くかどうかで判断してほしくなかったのだろう。そうじゃなく生身の自分を知ってほしい、生身の自分と出会って欲しい、イエスはそう願っているんじゃないだろうか。だから自分はメシアだとも、メシアじゃないとも言わなかったのじゃないだろうか。
大きい者
その後イエスはヨハネについて語る。ヨハネのことを女で産んだ者のうち最も大きい者だと言う。彼は律法をきっちりと守ったようだ。それはファリサイ派の人たちからも憎まれ口を叩かれるほどのものだったようだ。また彼と弟子達は政治的に影響を及ぼすよな集団ともなっていたらしい。
しかしそのヨハネも、神の国で最も小さい者でも彼よりは偉大である、と言われる。この世ではヨハネよりも立派な者はいない。がしかし神の国に入れられるとそのヨハネよりも大きい者となるということのようだ。この世ではいろんな業績、立派さ、が人の評価の基準となる。しかし神の国ではそんなこの世の基準ではない新しい基準があるということだろう。業績や立派さということに関係なく、誰もが大事にされる、誰もが大きい者とされる、そこが神の国なのだということだろう。
群衆
イエスのまわりにはヨハネ以外にもイエスの事をどう受け止めればいいのか分からない人達がいたようだ。イエスはそんな群衆に向かって語りかける。彼らはヨハネのことを、「あれは悪霊に取り憑かれている」と言い、イエスのことを「見ろ、大食漢で大酒のみだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言っていたようだ。
どんな人に対しても批判しようと思えば出来てしまう。どんな偉い人に対しても文句をつけようと思えばできてしまう。
ヨハネが禁欲的であれば悪霊につかれたといい、イエスが自由に振る舞えば大食漢で大酒のみだという。人を批判することで自分が偉い人間になったように思えるし、批判することは結構良い気分になれる。
どんなすばらしいことが起こっても、どんな神業が起こっても、そうしようと思えば批評し、非難の対象にできてしまう。
今の時代がそれだ、とイエスはいった。笛を吹いたのに踊ってくれない、葬式の歌を歌ったのに泣いてくれない、そんな時代だという。そして人の文句ばかりをいう。笛を吹いたのに、葬式の歌を歌ったのに真剣に聞いてくれないという。聞いて感動してくれない。ただ非難するだけただ批評するだけ。
出会い
神の出来事が起こっている、神が招いている、なのに非難をするばかりでいる。自分に語りかけられた言葉に対してもそれを非難の対象にしてしまうことがある。それが私たちの姿でもあるのかもしれない。
自分に語りかけられた言葉も心の中に入れていないということだろうか。この言葉が実にすばらしいなんて言ったとしても、その言葉が心に入っていなければ感動はないだろう。どんなにいいワインも、その良さの説明をいくら聞いても、飲まなければ酔えないのだ。どんなに美味しいと聞かされた料理でも食べなければ味わえない、感動もできない。
聖書の言葉もきっと同じだろう。それを食べて味わわなければそれは消化できない。身に付かない。もっと食べて見る必要があるのではないか。聖書を食べるとは、聖書の言葉を通してイエスと出会うということだと思う。イエスの言葉を聞き、イエスの姿を見るということだろう。
イエスは生身の自分と出会って欲しいと言っているのではないかと思う。メシアなのか違うのか、神なのか違うのか、そんな判断しようとするのではなく、ありのままの自分の姿、ありのままの言葉や行いを見て欲しい、つまりありのままの自分と出会ってほしい、そう願っているのではないかと思う。
イエスと出会うことで、私たちはメシアがどういうものであるのか、キリストがどういうものであるのか、神がどういうものであるのかを知ることになる、聖書はそのことを伝えているのだと思う。
イエスが関わっていた人達のことがここで書かれている。それは目の見えない人、足の不自由な人、らい病を患っている人、耳の聞こえない人、死者、貧しい人、イエスはそんな人達と関わり、そんな人達と生きてきたということだ。罪人だと言われ、穢れていると言われ、社会から除け者にされ、近寄るな、穢らわしい、役立たずと言われていた人達だ。イエスはそんな人達をいやしてきたと書かれている。イエスがそんな人達を大切にし、いたわり、受け止めていたということだろう。そこで彼らは元気になっていった、自分を価値あるものだと認めるようになったということなのだろう。それが彼らにとってはまさに癒しでありよみがえりだったのだろう。
圧倒的な力で世を裁く、高いところから世の中を監視しているのではなく、弱く見捨てられた者たちの中にきてくれ、その人たちを大事に大切にしている、それがメシアの姿だった、キリストの本当の姿だった、福音書はそのことを伝えているのだと思う。
マタイもそんなイエスと出会うことで感動し心震わせてきて、その思いを後世に伝えようとして福音書をまとめたのだと思う。自分と同じようにイエスと出会ってほしい、イエスと出会うことで感動し慰められ力付けられて欲しい、そんな思いをもって福音書をまとめたにちがいないと思う。そんな思いも汲みながら福音書を読んでいきたいと思う。