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礼拝メッセージより
なりふり構わず
同じ内容の話しがマルコとルカの福音書にも出てくる。どういう訳かマタイによる福音書では話しが短くなっている。
ある指導者がイエスの側にきた。他の福音書ではヤイロという会堂長だと書かれている。ユダヤ教の会堂の管理人。キリスト教で言えば教会の牧師のようなものだろう。会堂は安息日に礼拝をするところでユダヤ人にとっては心の拠り所であるだけでなく、そこは子ども達を教育するところでもあり、実際の社会生活の中心でもあった。今の日本の教会の牧師は大した権威はないが、当時のユダヤでは生活と宗教とが密着していて、会堂の指導者は人々から尊敬され、社会的信用の深い人物であり、社会的な影響も与えていた。そんなユダヤ教の指導者がこともあろうにイエスのそばに来てひれ伏したというのだ。
伝統的なユダヤ教の者たちにとってイエスは、自分を神の子だといい、律法の字面よりも律法の精神を大事にするというようなことを言って、律法の文言にしばられることなく当時のしきたりを公然と破る異端者であり、敵対者であった。宗教的な反逆児というだけではなく社会を乱す悪人でもあった。実際ユダヤ教の指導者たちはイエスの命さえもねらっていた。
しかし、娘が重い病気になり死んでしまうという事態が起こったとき、この指導者が助けを求めに行ったのはイエスだった。イエスのところへ行こうと思うまでにはいろんなことがあったに違いない。指導者であるという立場上からは、たとえイエスが病気を癒したりいろんな奇跡を行っていることを知っていたとしても、簡単にいくことはできなかっただろう。
しかし、今自分の上に大きな災難というか、娘が死ぬという最大の危機に直面したとき、自分の社会的立場も、名誉も、世間体も捨てて、この指導者はイエスへと向かっていった。
大事な娘を何とかしてほしい、あなたなら、あなたが来てくれたら娘は生き返る、相当滅茶苦茶なお願いをしている。死んだ者を戻してくれと言っている。
しかしイエスはこの指導者の願いを聞き入れてこの娘を甦らせたというのだ。死んでいるのではない、眠っているのだとイエスが声をかけると少女は起き上がった。
死は本来絶望以外の何物でもない。人はしかし死を自分のこととしては真剣にとらえようとはしない。「人は、自分以外のものは必ず死ぬと思っている」という言葉があるそうだが、自分の死も家族の死もなんとか避けたいと思うようなところがある。なんとかその死から遠ざかり、死に触れないように、死の不安と恐怖からなるべく遠いところにいることが幸せであるかのように思う。病気になっても何とかして死なないようにさせようとするようなところがある。
けれども人間はいつかは死ぬ。この娘ももちろんあとで死んだのだ。人間を死なないように、あるいは死ぬような病気を治して死から遠ざけること、それが一番大事なことではないだろう。死はやってくるのだ。
本当に文字通り死から生き返ったのかどうかわからないけれど、イエスは死さえも眠りに変えてしまうような特別な方であることを伝えているのだと思う。死のように、私たちにとって手も足も出せない、とうてい対処できないそんな問題に直面したときにも、私たちには頼るべき神がいるということを伝えているのだと思う。
信仰
この指導者はイエスの真正面に立ち、イエスに願い出て、イエスの力を見せてもらった。そしてちょうどこの時反対に後からイエスに触った女性がいたことが書かれている。
この女性は12年間も出血が続いていたという。レビ記によると、女性は生理の間7日間汚れた者とされて正常な社会生活ができなくなるそうだ。それが12年間出血しているとなると、12年間まともな社会の一員として認められないままでいたということになる。12年間汚れた者であるという烙印を押されたまま生きてきたということなのだろう。彼女はそんな負い目をずっと背負わせてきたのだ。だから彼女は後からイエスの服の房に触れることしかできなかった、イエスの前にひれ伏してお願いすることなんてとてもできなかったのではないかと思う。
ところがイエスはこの女性に、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言ったのだ。
触れれば治る、なんていうのはほとんどまじないのようなものだと思う。日本でも何かの像に触れると治る、自分の具合の悪い箇所と同じ箇所に触れるとよくなる、なんて話しを聞くけれどなんだか似ている気もする。しかし後から触るなんてのは何だか卑怯な方法のようにも思える。本当に信じているならユダヤ教の指導者のように真正面からお願いするのが筋ではないのかと言いたくなる。
でもそんな女性に対してイエスは、あなたの信仰があなたを救ったというのだ。そしてマタイはそのイエスが声をかけた時に彼女は治ったと書いている。
これが信仰なのかと思えるような信仰だ。イエスのこともそれほど知っているわけでもなかっただろう。もしかしたら病気が治るかもしれないという淡い期待をもって後からイエスに触る、それをイエスはあなたの信仰だと言い、あなたの信仰があなたを救ったというのだ。
出血を伴う病気であることから、この女性はずっと差別されて蔑まれてきたのだろう。病気は罪の結果だと考えられていた時代であったのでこの人は罪人だとされてきたのだろう。出血をしていることから穢れた女と言われていて、自分でもそう思って自分の人生を恨んで嘆いて生きていたのだろう。後からイエスの服の房に触れたというのがその気持ちを表しているように思う。
しかしその女性をイエスは、罪人としてではなく、穢れた人としてではなく真っ当なひとりの人として見ていたということだ。真正面に立つこともできない、まともに話しもできない、こっそり服に触ることしかできない、そんな女性をイエスは立派なひとりの人として、大切なひとりの人として見ていたということだ。
イエスはそんな女性に自分から声をかけた。あなたの信仰があなたを救ったと言った。イエスは女性の行為を認めそれを褒めたということだ。女性にとってこのイエスとの出会い、それこそが救いであり、またそれこそが癒しだったのだと思う。
出会い
聖書はイエスとのそんな出会いを経験した人達の証言集なのだと思う。そんなお前は駄目だ、そんな信仰では駄目だ、お前は罪人だ、穢れている、と言われ、自分自身でもそう思っていた人達が、イエスと出会うことで、イエスに受け止められ、認められ、褒められて力を受けてきた、そんな人達の証言集なのだと思う。イエスとの出会いによって生まれ変わったような経験をしてきたのだろう。
イエスとの出会いは、病気がすぐに治ってしまうような、死人が生き返ってしまうような、そんなすごいことなんだということをを伝えているのだと思う。
私たちはイエスと面と向かって会うことはできない。しかしイエスの言葉を聞くことでイエスと出会うことができる、その出会いは私たちが生まれ変わるような、新たに生きるようなそんな出会いなのだ、是非イエスと出会って欲しい、パウロも福音書の著者たちもそのことを伝えようとしているのだと思う。