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礼拝メッセージより
なぞなぞ
・ある民族が雨乞いの踊りをすると、必ず雨が降ります。なぜでしょうか? →降るまで踊るから
求めなさい
何この安直な言葉。求めるものを全部与えられて、探すものが全部見つかって、門をたたくと必ず与えられるのだろうか。そんな簡単に言えるのだろうか。
なぞなぞのように、与えられるまで求め続けたり、見つかるまで探し続けり、開かれるまで門を叩き続ければいいということなのだろうか。それともそうしなさいと言われているということなんだろうか。
確かに求め続けることで与えられるということもあるし、探し続けることで初めて見つけられるということもある。
駅の自動改札機を作った人の話しをテレビで見たのを思い出す。最初に作った機械は、キップを斜めに吸い込んでしまうことがあって、そうすると機械がキップの情報をうまく読み込めなくて止まってしまったそうだ。担当者は斜めに入ってしまったキップをどうやってまっすぐにすればいいのか、解決策がなかなか見つからないで、四六時中ずっとそのことを考えていたそうだ。そんな時に渓流を流れる落ち葉が石にぶつかって向きを変えるのをみて、解決策を思いついたという話しがあった。
イエスはそんな風に必死に求め続ければ与えられるということを言っているんだろうか。そもそもこの求めるのは誰に対してなのかということは11節にあるように天の父に対してだ。神に対して求めなさいということ、要するに祈るということだろう。人は悪い者であるけれど自分の子供には良いものを与えるんだから、神は尚更求めるものには良い物をくださるにちがいない、だからこそ求めなさいということのようだ。
しかし少し前の6章7-8節でイエスは祈りについて「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと宣べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」と言っている。
6章では、祈る前から神は必要なものを知ってるんだからくどくどと祈るなと言っていて、でも今日の7章では求めなさいと言っている。求めなければ与えられないのだろうか。確かに自分に必要なものだとしても、自分自身が必要だと思わなければ、そして自分自身が欲しいと思わなければ受け取りもしないだろう。そうするとやっぱり求めることは大事なんだろうなという気がしてきた。
また自動改札機のキップのように、探し物も探さなければ見つからないし、門だってたたかなければ確かに開かれないだろう。
神は私たちに何が必要なのかよく知っている、私たちにとって何が良い物なのかよく知っている、そして私たちがそれを求めることを待っているということになるんだろう。求めるということは受け取る準備が出来ているというか、受け取る態勢にあるということなのかな。
でもなんだかだんだんと屁理屈を言っているような気がしてきた。
得られない
神は私たちに必要なものを知っていて、良い物を与えようと待っているかのようだ。だからイエスは求めなさいと言っているらしい。
しかし現実の私たちは、求めても与えられないと思うことが多いんじゃないかと思う。求め方は悪いのか、熱心さが足りないのかと思う。しかしくどくどと祈るなと言われているというように、熱心に求めない物には与えてやらないというような意地悪な神ではないだろう。
なかなか与えられないということに対する答えのようなものがヤコブの手紙に書かれている。
「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」(ヤコブの手紙4章3節)
つまり自分の楽しみのためだけに使おうと求めても与えられない、自分に必要なものではないもの、私たちにとって良い物でないものを私たちが求めてもそれは与えられないということのようだ。
隣人に
どれほど求めなきゃいけないのかとか、どうやって求めたら与えられるか、どうして与えられないのか、なんてことに関心が向くけれど、私たちが一番に知っておくべきことは、神が私たちに必要な物をよく知っていて、良い物を与えようとしてくれているということじゃないかと思う。
神がそんな思いで私たちを見つめているということ、私たち自身を大切な大事な相手として見てくれているということだ。
だから、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と言われているのだろう。神があなたを大切に支えている、だからあなたは自分に与えてもらうことにばかり心配しないで、隣人を大事にしなさい、むしろ隣人に与えなさいと言われているのだろう。
自分にされていやなことを人にするな、と言うことはよく言われているらしい。ユダヤ教のラビの言葉にもあるそうで、それは誰もがよく知っていたのかもしれないし、自然な感情でもあると思う。
しかしイエスは自分にしてもらいたいことを人にしなさいと言った。似たような言葉だけれど中身はだいぶ違う。「するな」というのと「しろ」と言うのは全く別物だろう。おかしな関わりを持つなというのと、いい関係を持てというのは真逆なことだ。
あなたがたと神との関係のような暖かい関係をあなたがたの間でも持ちなさいと言われている。そしてそれこそが律法と預言者だと言っている。それこそが聖書の真髄だというわけだ。
お前に必要な物は全部分かっている、お前にとって良い物をちゃんと準備している、だから私に任しておけ、大丈夫だ、余計な心配はしなくていい、私があなたを大事にしているように、あなたたちもお互いを大事にしなさい、私が愛しているように、あなたがたもお互いに愛し合いなさい、神はそう言われているのではないか。