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礼拝メッセージより
しあわせって?
幸せってなんなんでしょう。何がどうあれば幸せなんでしょうか。お金がいっぱいあって、いろんなものをいっぱい持っていることが幸せなような気がします。自分の望みが叶えば幸せになれるような気もしますが、どのくらいまで望みが叶えば幸せなのでしょうか。ひとつか、ふたつか、10個か、100個か。どれだけ叶ってもまだまだと思っているうちは幸せとは思わないような気もするし、ひとつ叶ったことで幸せだと思うこともあるだろうと思います。
幸せかどうかの基準なんてのはないでしょうし、結局は幸せかどうかは自分の気持ち次第じゃないかという気がしてきました。
相田みつをって人の、『しあわせはいつもじぶんのこころがきめる』という言葉を見た時に、同じようなことを考えている人がいるんだ、と思いました。幸せかどうかって自分で決めているような気がします。そして幸せだと思える事自体が幸せで、幸せだと思うことでなんか元気が出てくるような気がしています。
幸いである
今日の聖書は幸いであるという言葉が繰り返される箇所です。同じ内容の話しがルカによる福音書6章20節以下の所にも出てきます。マタイでは山上の説教となってますがルカでは平野の説教となっていてちょっと違っています。
ルカでは「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と書かれていて、マタイとルカではちょっと違うところがあります。マタイは「天の国はその人たちのものである」ですがルカでは「神の国はあなたがたのものである」と言われています。
そして一番大きな違いは、マタイにある『心の』というのがルカにはありません。ルカは貧しい人々は幸いであると言っています。
これについては、多くの学者は、ルカのテキストの方が元の形であっただろう、と言っています。すなわち、イエスの言われたのは、文字通り「貧しい人」だったというわけです。それをマタイは、「心の」というのを付け加えて精神化したというわけです。また、「今飢えている人たち」もマタイの方では、「義に飢えかわいている人たち」となっていて、「今泣いている人たち」も「悲しんでいる人たち」となっていて、どちらも精神的なことに変化しています。このようなことからもルカの方がもともとイエスが語った形に近いように思われます。
貧しい人たち、今飢えている人たち、今泣いている人たちが幸いだなんてあまりにも過激な言い方だったのでマタイはそれを精神的なことと捉えて過激さを和らげたんではないか、という話しも聞いたことがあります。
またマタイによる福音書に出てくる、柔和な人々、義に上渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、というのがルカによる福音書には出てきません。貧しい人々、今飢えている人々、今泣いている人々が幸いであるということは納得しにくいのに対して、マタイによる福音書にしか出てこない人々が幸いであるということは納得できるような気がします。マタイはイエスの過激さを和らげるために、常識的な幸せを付け加えたような気もします。
そうじゃない
イエスは思いもよらぬことを言ったりしたりすることが度々あるように思います。マタイによる福音書3章でイエスがヨハネからバプテスマを受けたことが書かれていますが、これも常識的に考えるととんでもないことをしたのではないかという気がしてきている。学びの分かち合いの時に、今で言えば牧師がバプテスマを受けさせてくれと言ってるようなものではないかと言いましたが、そんな常識破りな出来事だったのではないかと思います。そこまでして私たち罪人と同じ所に居ようとしたということではないかという気がしています。
貧しいこと、飢えていること、泣いていること、それは普通に考えると不幸せなことでしょう。誰もが不幸せな状態だと思うでしょう。当時イエスのこの言葉を聞いていた人達も、貧しくて飢えていて泣いている自分はなんて不幸せなんだ、と思っていたことでしょう。この不幸せな状態から助けてくれと思っていたことでしょう。
しかしイエスは、そうじゃない、貧しい人々は幸いだ、飢えている人々は幸いだ、泣いている人々は幸いだ、と言ったような気がしています。あんたたちは自分のことを不幸だ不幸だと言っている、そんなことはない、あんたたちは幸いなんだと言っているのではないでしょうか。馬鹿げたことを言ったんだと思います。
イエスはまた私たちに対しても同じように語りかけているように思います。お金もないし友達もいないし、夢も希望もないし、ここから抜け出す力もない、あるのは過去の失敗と後悔、将来の不安と心配ばかり、どうしてこんなに不幸なんだと思っている私たちに対しても、そうじゃない、あなたは幸いなんだと叫んでいるような気がしてきました。
不幸だと思うと心はどんどん沈んでいきますが、幸いだと言われると今までと違う面が見えてくるような気がします。
僕は何でもお金に置き換えて、お金でものの価値を考えるようになって、お金が全てであるような気持ちになっているような気がしています。ニュースなんかでサラリーマンの平均年収なんて言葉にすぐ反応してしまいます。お金を持っていないことに対する嫌悪感がいっぱいあるし、貧しくなることに対する恐怖感もいっぱいあります。
イエスは、お金にばかり縛らるな、お金で物事を判断するな、お金で幸不幸を決め付けるなと言われているような気もします。お金がいっぱいあるときはにこにこしてて、少なくなるとしかめっ面をするような、財布の中身が幸せの度合いと思うような、そんなことになってい自分に対して、そうじゃない、お金と一緒に元気をなくしちゃいけないと言われているような気がしています。
イエスは、兎に角あんたたち幸せなんだよ、と言っているんじゃないでしょうか。全然幸せじゃない、こんなに貧しくて辛くて大変で、こんなの全然幸せじゃないと思っている私たちに向かってイエスは、いやあんたたち幸せなんだよと言われているのではないでしょうか。
不幸だ不幸だと不幸をいっぱい数えて、こんな自分に未来はないと落ち込んでいる私たちに対してイエスは、そうじゃないあなたは幸いだ、あなたには未来があるんだ、神の国はあなたのものだし、私はあなたの味方だ、と言われているような気がします。俯いてしまっている私たちをイエスは必死に励ましているような気がしています。
不幸だと思う気持ちに押しつぶされてただ下を向いていてはいけない、不幸に負けないで私と一緒に生きて欲しい、ちょっと上を見てごらん、そこはもう不幸じゃないんだ、イエスはそう言われているのではないでしょうか。
だからと言って不幸な現実がすぐになくなるわけではありません。でもその厳しい現実の中で小さな一歩を踏み出そうかという元気がちょっと出てくるような気がしています。