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礼拝メッセージより
ヨハネ
3章の初めの所に洗礼者ヨハネが登場する。彼は荒れ野で、悔い改めよ、天の国は近づいた、と宣べ伝えていた。そして「預言者イザヤによってこう言われている人」と言われている。
イザヤ書 40:3には、「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」とある。
荒れ野
このイザヤ書はバビロン補囚の時代に書かれた。自分たちの国が他の国に占領され、指導者たちはその国に捕らわれていった、そんな時代に神が語った言葉が、この言葉だった。
荒れ野とは文字通り荒れた地で、石がごろごろしているところ。神はその荒れ野に、道を備え、広い道を通せ、と言われた。その道は、捕らえられている者たちをイスラエルに返す道を備える、もうすぐ解放される、自由にされる、もうすぐ帰れる、神がそう言っている。捕らわれているバビロンとイスラエルとの間が、実際にこの荒野だそうだ。そこに道を整えよ、と神は言われる。
でも実際にはその時は全く見通しが全く立たない苦しい状況だった、にもかかわらず神はその真っ暗闇の真ん中に道を備えようとされているのだ、とイザヤは伝えた。
悔い改め
ヨハネは荒れ野で語った。何もない荒れ野で語った。そこにエルサレムとユダヤ全土から、またヨルダン川沿いの地方一帯から人々が来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた、と書かれている。
ヨハネは悔い改めよ、と語った。悔い改めとは、向きを変えること。人間の性質、性格を変えてしまうことではない。そうなるかもしれないが、大事なのは、神との関係を変える、つまり神の方を向くということ。自分の進むべき方向へ向かっていく、そっちの方向に向きを変えるということ、それが悔い改めだ。
私たちの人生は、本来進むべき方向を見失い、どこへ行けばいいのかよく分からなくなってしまうようなところがある。
グレートレース
先日グレートレースというテレビを見た。途中から見たので詳しいことは分からないが、日本のチームも参加していてブラジルで何日もかけて川をボートで渡ったり、湿原の中を首まで水に浸かりながら何百kmをも自力で進むレースだった。その中で、夜中に森の中をチェックポイントを目指して歩いている途中方向を見失ってしまったことがあった。ほとんど道なき道を歩いていて、それでなくても大変なのに、睡眠時間も削っていて疲労も溜まっていて、気温も夜でも30度以上だったかな、そんな中で進む方向を見失ってうろうろして、ついに一人の人が倒れてしまったなんてことがあった。その人はしばらく休んでからまた少し元気を取り戻して歩き出したのでほっとした。
私たちの人生も似たようなところがあるように思う。進むべき方向を見失いってしまい、動き回って疲れてしまうと倒れてしまいかねない。
そんな私たちが神の方に向き直って進むこと、それが悔い改め。悔い改めとは、私が悪うございました、といじけることでもないし、これからは決して罪は犯しませんと、とその時から、罪のない人間になると宣言することでもない。罪も持ったまま、駄目なものも抱えたまま、神の方に向きを変える、それが悔い改めだ。
罪人
荒野に登場したヨハネは、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履き物をお脱がせする値打ちもない」と言った。やがてメシアが、救い主がやってくると言った。そしてイエスこそがその救い主だ、とマタイは告げている。
ところがイエスがヨハネのもとへ来ると、ヨハネからバプテスマを受けた。聖霊と火によってバプテスマを授ける、とヨハネから言われていたはずの方が、逆にまずバプテスマを受けられたというのだ。ヨハネの発言からすると、ヨハネの方が何かをしてもらうことはあっても、ヨハネがイエスに何かをするなんてことはおかしいように思う。しかしそのおかしいことをイエスはされた。
イエスはバプテスマを受けるところから自分のわざを始められた。そもそもヨハネのバプテスマは、罪を悔い改めることのしるしとしてのバプテスマだった。そうすると罪のない救い主がバプテスマを受ける必要はないというか、おかしなことになる。バプテスマを受けるのは罪人。罪人が悔い改めて受ける。神を忘れて神に向かっていなかったものが、これからは神の方を向いて生きるぞ、というしるしのバプテスマだ。だからバプテスマは罪人が受けるもの。
なのにイエスはバプテスマを受けた。なぜなんだろうか。ヨハネにとっても想定外の出来事だったようだ。ヨハネは最初ためらったけれども、イエスは正しいことをすべて行う事は、我々にふさわしいことです、と言ってバプテスマを受けたと書かれている。
なぜイエスはバプテスマを受けたのだろうか。正しいことだ、と言う以上のことは書かれていないので理由はよくわからないけれど、それはイエスが罪人の側にいたから、ずっと罪人の側にいようとしたからではないかと思う。
イエスはその後の生き様を見ると、自ら進んで罪人と言われる人の所へ出向いている。いつも罪深い、弱い人間と同じ所に立っている。イエスはその活動の最初から人間の中におられた。罪人の中におられた。そしてずっと、十字架に至るまで罪人の中におられた。罪人の真ん中におられた。
バプテスマを受けられたのもそんな罪人と同じ所で生きる、というか罪人として生きる、私たち罪人と同じ世界で生きる、という決意の表れだったではないかと思う。
イエスがバプテスマを受けると、天がイエスに向かって開いて、神の霊は鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になり、これは私の愛する子、わたしの心に適う者という声が天から聞こえた、と書かれている。天がイエスに向かって開くというのは一体どういう光景なんだろうかと思う。しかしそれは神は天にいて、私たちとかけはなれたところにいて、遠い遠いところからじっとこの世を見ているのではなく、私たちの罪人の中にやってきたのだということを伝えているのだと思う。
神自らが私たちの普段の生活の中に、私たちの罪にまみれたこの世の生活の中に斬り込んできた。それがイエスなのだ、ということなんだろう。
グレートレース
人生はグレートレースでもあるような気がしている。
いろいろな苦しみや痛みを負い、傷つけられたり傷つけたり、憎んだり憎まれたり、あるいは挫折し失敗し、いったいどうすりゃいいんだとまたそんな自分の無力さと嘆き失望する、そんなことばかりが多いのが私たちの人生だ。
神を見失い、進むべき方向を見失い、どっちに行けば良いのか分からないままに動き回って右往左往して疲れ果ててしまう、そんな私たちの人生だ。
けれどもそんな罪人として生きている私たちのただ中にイエスは来た。イエスの方から、そんな罪人である私たちの方へ来てくれた、そして罪人である私たちと同じ所まで降りてきてくれた、それがこのバプテスマだったように思う。
それはいつも私たちと共にいる、どこまでも一緒に生きていくというイエスの決意でもあったんじゃないかという気がしている。何があっても、どんなに迷っても、どんなに落ちぶれても、お前をひとりぼっちにはしない、そんなイエスの決意の現れ、それがこのバプテスマだったのではないかと思う。
私はいつだって一緒にいる、お前はひとりぼっちじゃないよ、イエスは今もそう私たちに語りかけてくれているのではないか。
人生というグレートレースをそんなイエスと共に生きようという決意というか、決意というよりもイエスの決意を受けとめることのしるし、それが私たちのバプテスマなのだろう。
ちなみに明日と明後日の夜に別のグレートレースの放送があるそうだ。