前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
クルシミマス
クリスマスはクルシミマスだ、とある牧師がブログに書いてあった。オレだけじゃないんだとちょっとうれしくなった。クリスマスは毎年毎年やってきて、しかもクリスマスの聖書は少ししかなくて、毎年同じ説教を、してもいいのかもしれないけれど、それもあまりしたくない。なんて偉そうなこと言いつつ、昔の説教を見たら今日の箇所でも何回も同じ話しばかりしていて、自分でショックを受けている。
聖書って読めば読むほど分かるというものでもないような気がしている。読めば読むほどいろんなことが気になってくる。昔は素直に信じていたというか、信じなきゃいけないような気持ちで読んでいたけれど、最近はもっと正直に読んだ方が良い気がしていて、そうすると本当にいろいろと引っかかる。聖書も書いた人の意図とか気持ちとかが入っているわけだけれど、そんなこと考えていたらなかなか面白い、反面深入りすると訳が分からなくなりそうにもなる。そういうわけで今年のクリスマスも苦しんでます。
ヨセフ
クリスマスの主役はイエスだが、その次はマリアということに相場が決まっている。それに付け足しのようにでてくるのがヨセフ。イエスの生涯の最初にだけ現れ、たちまち消えてしまう人物。イエスは戸籍上はヨセフの子ということになる。マタイによる福音書の最初に系図が載っていて、その系図によるとイエスはヨセフの子どもとして書かれている。しかし福音書が言うことからすると、イエスは彼の子ではないことになっている。そしてイエスと言う名前も、天使がそのようにつけなさいといわれたものでヨセフが付けたものではないことになっている。
自分の血を分けた子どもではないイエスの父親となるようにさせられた、このような不条理を背負わされた男としてヨセフが登場する。
婚姻
当時ユダヤでは男性が18歳から20歳位、女性が12歳から14歳位に結婚したそうだ。
若くして結婚するので、最初の婚約は当人がまだ子供の時に親たちが決めることが多かったそうだ。結婚が近づき、その婚約を正式に承認することで許嫁となったそうだ。その時に結婚する意思がないとなると婚約を破棄することもできたが、許嫁となると基本的に解消はできなかったそうだ。許嫁の期間は1年で、その間は夫婦同様に見られていたそうだ。そして許嫁の期間が終わると結婚式をして正式に結ばれたそうだ。
疑い
今日の話しの内容からするとマリアとヨセフは許嫁となって結婚式を待つばかりという時のようだ。
しかし許嫁のマリアが妊娠してしまったと知る。そこでヨセフはマリアをひそかに離縁しようと考えた。婚約中の不義の処罰は石打ちの刑とすると律法に定められていた。この時代には実際には石打ちは実施されなくなっていたそうだが、そのかわりに離縁状を法廷に提出して判決を受けてそれを公表して別れる、あるいは2,3人の証人を立ち会わせてひそかに相手を去らせるか、どちらかにするようにと定められていたそうだ。
ヨセフはひそかに別れようとしたが、主の使いがヨセフに夢の中に現れ、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい、マリアの胎の子は聖霊によって宿った」なんてことを告げたのでそのまま結婚したという話しだ。
片隅に
神学校の先生がどこかに書いてあったことを思い出した。その先生はアメリカだったと思うけれど、留学していた時にそこの教会でバプテスマを受けた。そこの教会は聖書は間違いのない神の言葉だというふうに教えられていたそうだ。その後日本に帰って来て日本の教会に通うようになった。ある時その教会の運動会だったか修養会の中のゲームだったか忘れたけれど、兎に角2つのグループに分かれて競争することになった。そのグループを分ける時にそこの牧師が、処女降誕を信じる人はこちら側、信じない人はあちら側と言って分けたそうだ。その先生は処女降誕は聖書が書いてあるから信じないといけないものだと思っていたので牧師がそんなことを言ったのでびっくりしたというようなことを書いてあった。
僕も最初は聖書はそのまま信じないといけないと思っていた。有り得ないことが書いてあっても聖書だから信じる、それが信仰なんだと思っていた。けれどだんだんと変わってきた。聖書をどう読むかということになってくると思うけれど、聖書も結局は人間が書いた物であって、書いた人の意図が当然反映している。物語がそのまま本当に起こったことととして信じるというよりも、その物語を通して伝えたいものがあって、その伝えたいものを聞いていくことが大切なことなんだろうと思う。
イエスは処女であるマリアから生まれてきたように書かれている。しかしそれ以前からも偉大な人物と言われるいろんな人が、アレクサンドル大王もそうらしいけれど、父親がなしに母親からだけ生まれていたと言われていたそうだ。父親が誰なのかということははっきりしづらい面がある。確信を持てるのは母親だけだろうし、その母親だって確信を持てないことだってあるのだろう。さすがにその母親から産まれたということは周りの人間にも認識できるし誤魔化しもできない。そんなこともあって偉大な人物は特別な生まれ方をしている、父がいないのだという言われ方をしてきたようだ。
マタイもそれに倣って、イエスもただの人ではない偉大な人なのだということを伝えようとしているのだと思う。そしてただの特別な人物ではなく聖霊によって生まれた、と言っている。そして実は聖霊によって生まれたということをマタイは一番伝えたかったのではないかという気がしている。
最初に書かれた福音書であるマルコによる福音書にはクリスマスのことは何も書かれていない。ルカによる福音書には詳しく書かれているけれど、これはマタイによる福音書とは随分違っているというか矛盾しているところもある。
本当はイエスの誕生がどうだったのか、ほとんど誰も知らないのだと思う。「この世界の片隅に」というアニメの映画が流行っているそうだ。呉が舞台になっていてとても良い映画だそうだけれど、イエスも世界の片隅でほとんど誰にも知られずに生まれてきたんだと思う。生まれた時のいきさつなんてのもほとんど伝えられていないに違いない。後々イエスをメシアである、救い主であると信じるようになった人達がイエスのことを伝えるために、イエスがメシアであると分かってもらうためにまとめたのが福音書だ。マタイは特にユダヤ人にそれを伝えるために旧約聖書を引用して、ここに書かれていた約束が成就したという言い方を何度も使って、イエスこそが旧約時代から約束されたメシアなのだということを一所懸命に伝えようとしている。その一貫としてこの誕生物語も出来ているようだ。
イエスは聖霊によって生まれた、イエスは人間として生まれた、しかしそれは神によって生まれた、つまり神がここで私たち人間世界に介入してきた、神の光が私たち人間世界を照らしたということをマタイは伝えているのだと思う。
でもその神の光は人間の目に見えるような光ではないのだろう。イエスは華々しく光輝く姿で生まれてきたわけではないようだ。見るからにまるで普通の人間として生まれてきた。世界の片隅でひっそりと生まれてきた。しかしそれは世界の片隅に生きる私たちに神の光を届けるために生まれてきたのだと思う。
私たちの目には見えない、けれど神の光が片隅に生きる私たちをも照らしている、そのことをマタイは伝えたいんではないかと思うようになってきた。そのためにイエスは特別な使命を帯びて生まれてきた、それを聖霊によって宿ったという言い方をしているのではないかと思う。父親がいようがいまいが大した問題じゃないと思う。
処女降誕が本当だと思う人は思えばいいし、思えない人は思わなくてもいいと思う。誕生のいきさつはどうあれ、神がイエスを通して、神がイエスとなってと言った方がいいのかもしれないけれど、イエスを通して神の言葉を私たちに伝え、私たちに神の光を照らしている、神の愛を伝えてくれている、そんなイエスが私たちところにやってきた、片隅に生きる私たちのところにやってきた、それこそマタイが伝えたいことなんじゃないかなと思う。