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礼拝メッセージより
イエス?インマヌエル?
「その子をイエスと名付けなさい」と言ったかと思うと「その名はインマヌエルと呼ばれる」と言ったり。イエスなのかインマヌエルなのか、一体どういうことなんだろうといつも思う。
インマヌエル
23節「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。これは旧約聖書のイザヤ書7章14節にある言葉だそうだ。
イザヤがこの言葉を告げた時代、イスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国に別れていた。当時は北の方にあるアッシリアという強い国の脅威にさらされていた。アッシリアに近い北イスラエル王国と、その北にあるアラムという国は同盟を結んでアッシリアに対抗しようとしていた。そして南ユダ王国も一緒になろうと持ちかけてきたが南ユダや王国は同調しなかった。そうすると北イスラエルとアラムは南ユダに攻めて来た。当時の南ユダ王国のアハズ王はアッシリアに助けを求めようとした。イザヤはアハズ王に面会して、アッシリアではなく神に助けを求めるようにと進言したがアハズ王は神ではなくアッシリアに援軍を求めて。イザヤの進言を断るアハズ王に与えられた言葉が、見よおとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ、というものだった。
その後アハズの子ヒゼキヤが次の王となり、ヒゼキヤ王はアッシリアとの関係を絶って、神殿から偶像を取り除いた。イザヤ書9章5節に「ひとりのみごりごがわたしたちのために産まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。」とあるが、これはイザヤがヒゼキヤ王の即位を喜ぶ言葉だと思われる。
イザヤはインマヌエルはヒゼキヤ王であると告げていて、ヒゼキヤ王は神に助けを求め、アッシリアはエルサレムを包囲したものの疫病が発生し撤退することになった。ヒゼキヤ王はユダ王国の窮地を救った。
マタイはこのヒゼキヤ王になぞらえて、イエスこそがヒゼキヤ王が国民を守ったように私たちを守るインマヌエル、神我らと共にと呼ばれる救い主だ、と告げているのだと思う。
共に
共に、という時に思い出す歌がある。
イングランドにリバプールというチームがある。プレミアリーグという一番上のリーグにいるが、そのホームの試合ではキックオフの前にサポーターがみんなで唄う歌がある。それが you'll never walk alone だ。直訳すると、あなたは決して一人ぼっちにならないという意味だと思う。
When you walk through a storm
Hold your head up high
And don't be afraid of the dark
At the end of the storm
There's a golden sky
And the sweet silver song of a lark
Walk on, through the wind
Walk on, through the rain
Though your dreams be tossed and blown
Walk on, walk on, with hope in your heart
And you'll never walk alone
You'll never walk alone
たとえ嵐の中でも
しっかりと前を向こう
暗闇も恐れないで
嵐の後には
輝く青空と
さわやかなヒバリの歌が待っている
歩き続けよう、風の中を
歩き続けよう、雨の中も
あなたの夢が揺さぶられ、破れても
歩き続けよう、心に希望を持って
そう、君はひとりぼっちじゃない
君はひとりぼっちじゃないんだ
もう一つ、これは韓国の女子刑務所を舞台にしたハーモニーという実話を元にしたという映画の中の曲。
クリスマスには祝福を
クリスマスには愛を
あなたに会えたあの日を 忘れません
離れていても 一緒にいても 私には同じことです
今でも私の心は いつも あなたのそばに いつまでも 永遠に
もう一度 会えたら あなたの歌を歌いましょう
世界中があなたの香りに 包まれるように
神我らと共に、という時の「共に」というのは、いつも触れ合っているとか、いつも目に見えるところにいるとかいうことではなく、そういう物理的な距離が近いということよりも、心というか思いがあるといることだと思う。
神我らと共にというのは、神の思い、つまり神が私たちを愛している、私たちを大切に思っている、そんな思いが私たちに届いている、それが「神我らと共に」ということだと思う。
愛されているから、大切に思われているから私たちはひとりぼっちじゃないのだ。風の中でも、雨の中でも、嵐の中でも、ひとりぼっちじゃないから歩いていけるのだ。
マタイの福音書ではヨセフは許嫁のマリアが訳の分からないうちに妊娠してしまったために密かに別れようとしたと書かれている。しかしそんな時にヨセフは夢の中で、神は我々と共におられるという言葉を聞いたという。
これはマタイから私たちへのメッセージなんじゃないかと思う。私たちの人生にもいろんなことが降りかかってくる。嵐の中を歩く時もある、風も吹き雨も降る。時には訳の分からないような出来事、不条理な出来事が降りかかってくることがある。自分ではとても背負いきれず投げ出したいような出来事も起こってくる。
しかしそんな私たちの下にキリストが生まれた、インマヌエルのキリストが生まれた、マタイは私たちにそのことを伝えている。神はいつも私たちと共にいる、私たちはいつも神に愛され大切にされ心配されている、私たちは決してひとりぼっちじゃない、決してひとりぼっちにならない、だからどんな時でも神と共に生きていこう、マタイはそう私たちに告げているのだろうと思う。