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礼拝メッセージより
補習
昔から歴史は嫌いだった。というよりも歴史の授業が嫌いだった。ただ年号や名前を覚えるばかりで全然面白くなくて覚える気力もなかった。そういえば教室の黒板の上に歴史の年表があったような気もするけれどほとんど興味もなかった。
高校で世界史を習ったけれど、テストはいつも30点位だった。高校でも意味の分からない年号や名前を覚えさせられたという意識が強くて、全然覚えられなかった。いつも90点以上取る奴がいたけれど神経が知れなかった。
いつだったか世界史の補習授業に出させられたことを今でも覚えている。とっても苦痛で、バビロン捕囚ならぬ世界史補囚というような気持ちだった。生徒に「この戦いとは言うまでもなく?浅海」と言うように質問する、言うまでもなくが口癖の先生だった。そんなこと聞くまでもなく覚えてないよという感じだった。
ところが聖書を見てると歴史的なことがいっぱい出て来て、世界史の授業で微かに聞いたような名前も登場してきて、しっかり覚えていたら良かったのになあ、なんて思っているこのごろだ。
ダニエル書
バビロニアはペルシャという国に滅ぼされ、バビロンに補囚されていた民はユダの地に帰ることができるようになった。紀元前四世紀後半、そのペルシアも次第に弱くなってきて、マケドニアのアレクサンドロス大王によって、ペルシア帝国は滅ぼされた。アレクサンドロスは、わずか12年間でペルシア帝国の支配領域をすべて支配下に治め、一大帝国を建設した。しかし32歳で病死する。マケドニア帝国の領地は、残された四人の将軍によって分割され、ユダヤは、最初はエジプトを支配したプトレマイオス王朝に、次にシリアを支配したセレウコス王朝に支配されることになる。
プトレマイオス王朝は、ユダヤ人たちに自由は宗教生活を許可した。そしてパレスチナにもヘレニズム的な、つまりギリシャ的な影響が多く入りこんできて、ヘレニズム様式の都市や建物が建設されたり、ヘレニズム的な思想も入り込んできた。ユダヤ人の中にはこのような傾向を歓迎するグループもあれば、反発を覚えるグループもあった。言葉もギリシア語が公用語として使われるようになり、この時代に聖書のギリシア語への翻訳が行われた。
前198年、シリアのアンティオコス三世が、エジプトのプトレマイオス五世を破り、これ以後ユダヤはセレウコス王朝の支配下に入った。アンティオコス三世は、ユダヤ人に宗教生活の自由を許したが、次のアンティオコス四世は、エジプト遠征の戦費をまかなうために、エルサレム神殿の財宝を略奪し、その後ユダヤに対する徹底的な宗教弾圧を開始した。律法の書を焼かせ、安息日や割礼などの律法に従うことを禁止し、エルサレム神殿や国内の各地にギリシアの神ゼウスの像を置いて礼拝することを強制し、ヤハウェを礼拝することを禁止した。そんな中でも偶像礼拝を拒否して、ヤハウェを礼拝することを固守した者たちは殺されてしまった。
そんな迫害に苦しむ人々を励ますためにこのダニエル書は書かれた。
宗教的な弾圧があったために、下手に時の体制の非難をすると何をされるかわからないので、それを誤魔化すために昔の物語として書かれたらしい。そういう黙示文学という形式でダニエル書は書かれた。表向きは昔の物語となっているけれども、今の状況を投影して、今苦しい思いをしている人達を励ますために書かれたということらしい。
ものがたり
物語の筋は単純で、バビロンの王が補囚としてバビロンに連れてこられた者から、容姿端麗で才能もある4人が選ばれ、カルデア人の言葉と文書を学ばせた。カルデア人というのはバビロン人のことのようだ。そこで選ばれたのが、ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの4人だった。4人は本来の名前ではなくて、ダニエルはベルテシャツァル、ハナンヤはシャドラク、ミシャエルはメシャク、アザルヤはアベド・ネゴ、という名前で呼ばれることになったた。
この名前には意味があって、ダニエルは「神は裁き主」、ハナンヤは「ヤハウェは恵み深い」、ミシャエルは「神である方は誰か」、アザルヤは「主は助けられる」という意味だそうだ。エルとかヤは神を意味する言葉だそうだ。
その名前を、ダニエルはベルというバビロンの神の名をとって、「ベルのご加護を」という意味の名前で呼ばれることになった。またハナンヤは、バビロンの太陽神である「ラクの光を受ける」という意味の「シャデラク」、ミシャエルは、異教の神の名である「アク」から「アクである方は誰か」に、そしてアザルヤは、バビロンの神ベルの息子と思われる「ネボのしもべ」という意味の「アベデ・ネゴ」と呼ばれることになった。
自分達の信じる神に由来する名前だったのを、異教の神に関係する名前に変えられたということになる。そしてバビロンの王は、彼らにバビロンの英才教育を受けさせ、バビロン人となってバビロンを背負っていく者となるようにという期待を持っていたということなんだろうと思う。
しかしダニエルたちは肉類と酒で自分を汚すまいと決心した。律法的には血の付いたものや豚は食べてはいけないことになっていた。そこで完全に血を抜いて、しっかり火を通してから肉を食べていたそうだ。ダニエルたちは律法を守ろうとした、律法的に汚れたことは拒否しようとした、要するにバビロンにおいてもユダヤ人として生きようとした、ということだ。
そこで侍従長に野菜と水だけにしてくれと頼んだけれど聞いて貰えず、今度は世話係に頼み、十日間試してもらったけれど他の者たちよりも元気だったので、その後も世話係は野菜だけにしてくれた。
3年間の養成期間が終わったが、4人は他の者たちよりも優れていたので王のそばに仕えることになった。
そういう話しだ。
大事に
どこにいても神を信じていれば、そして神の命令に従っていれば大丈夫、だからこの神を信じていきましょうという話しにも聞こえるけれど、それよりも、自分の思いや信念を大事にして生きなさい、ということなのではないかと思う。
自分の信仰や信念を貫くというのはなかなか大変なことだ。
今の日本でクリスチャンであることとか、教会に行くこと、礼拝に行くことというのは本当に大変なことだと思う。この社会の中で信仰を守り通している日本のクリスチャンはすごい、と言った牧師がいたけれど本当にそうだと思う。教会に行くなんて完全に少数者であるし、社会から見ればいわば変わり者であるわけだ。そして変わり者はなかなか受け入れてくれない社会な訳で、そこでずっと教会に通っているとか、クリスチャンであるとかいうのは本当にすごいことだなと思う。
信念や信仰を曲げられる、また名前を変えさせられる、それは結局は自分を自分でなくさせられることでもあるのだろうと思う。自分の正直な思いを持てなくさせられる、願ってないことをさせられる、思っていないことを言わせられるということも、それは自分でなくさせられる、極端に言うと自分を殺されることでもあると思う。
だからこそ、あなたはあなたの信じる道を行きなさい、勇気を持って生きなさい、あなたはあなたであることを大事にして欲しい、そのために自分の信仰や信念を、そして自分の思いや気持ちを大事にして欲しい、自分自身を大事に生きてほしい、そう励まされているように思う。
神は見えない大きな流れで私たちを守ってくれているんだ、だからまた私たちの信仰も大事にしようではないか、そう言われているような気がする。