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礼拝メッセージより
背景
ダニエル書の内容自体は紀元前6世紀にあったバビロン補囚での出来事となっているが、実際にダニエル書が書かれたのはもっともっと後の紀元前2世紀ごろだそうだ。バビロンのネブカドネツァル王が登場するけれども、これは暗に紀元前2世紀当時にパレスチナ地方を支配していたシリア王国のアンティオコス四世のことを指しているそうだ。
旧約聖書続編の中のマカバイ記にはアンティオコス四世、別名アンティオコス・エピファネスのことが書かれている。彼はエルサレム神殿の財宝を略奪し、神殿の中にギリシャの神ゼウスの像を建てた。律法の巻物を見つけると引き裂いて燃やし、契約の書を隠していることが発覚した者や、律法に適う生活をしている者は処刑した。また子どもに割礼を受けさせた母親は殺し、その乳飲み子を母親の首につるすように命じたなんてことも書いてある。そういう風にユダヤ教を完全に否定しユダヤ教の儀式を辞めさせ、ゼウス像を礼拝するように強要したそうだ。
ダニエル書はそんな時代に、自分達の神を礼拝することを赦されずに、別の神を礼拝するように強要された、そんな風に迫害され苦しんでいるユダヤ人たちを励ますために書かれたものだ。
あらすじ
ネブカドネツァル王は大きな金の像を建て全国の役人たちを集めて除幕式を行った。そして全国民は合図の音楽が聞こえたら金の像の前にひれ伏して拝むように、拝まない者は直ちに燃えさかる炉に投げ込まれると命令を出す。
そこにシャドラク、メシャク、アベド・ネゴという3人のユダヤ人の役人がいた。彼らは王の命令に従わず金の像を拝まなかった。そこで王は3人に対し、像を拝むのか拝まないのか、拝まないなら燃えさかる炉に投げ込むと脅迫する。お前達をわたしの手から救い出す神があるのか、という。一体どこの神がお前達を救うことができるというのか、ということのようだ。
3人はこれに対し、そんなことは答える必要はない、私たちの神は燃えさかる炉からも王からも救い出すことができる。そうでなくても、王の神々に仕えることも、金の像を拝むことも決してしない、と答えたというのだ。
ネブカドネツァル王は怒って、3人を縛っていつもの七倍熱く燃やした炉に投げ込ませた。引いていった者も焼け死んでしまったけれども3人は無事で、しかもそこには第4の人もいたというのだ。そこでネブカドネツァル王は3人に対して、いと高き神に仕える人びとよ、と語り炉から出てくるようにと言った。3人は全く燃えることがなくてにおいもしなかったという。
ネブカドネツァル王はびっくりしてしまって、3人を大事にするようにと命令して、高い位につけたと言うのだ。
そうでなくても
めでたし、めでたしという感じの話だ。
神は私たちを必ず助け出してくれる、どんな害にも遭わせることはない、祈れば必ず答えられる、と言えればどんなにいいだろうかと思う。そう信じることができ、実際必ずそうなるのならばどんなにいいだろうかと思う。
しかし実際にはいつもいつも自分達の願いどおりに、祈ったとおりに事が進んでいくわけではない。そんな時、願いどおりにならないのは私の祈りが足りないから、信仰が足りないからそうなったのだということになりそうだ。
けれどもそんなに単純に、しっかり祈ればしっかり信じていれば自分達の願いどおりになる、というのが私たちの信仰なのだろうか。神さまは私たちが一所懸命に願えば必ずその願いをかなえてくれる方なのだろうか。そうやって願いをかなえてくれるから私たちはこの神を信じているのだろうか。
神が自分の味方になって、いつも自分の願いを叶えてくれることを願うけれども実際はなかなかそうはいかない。
ダニエル書が書かれた時代にも、王の命令に背いてゼウス像を拝まなかったことで殺された人達もいたようだ。実際に燃えさかる炉の中に投げ込まれて無事に帰るなんてことはありえない。
神が守るのは私たちの心なのではないかと思う。信仰とか信念も含めて私たちの心を守ったということなんじゃないかと思う。
信じてもないものを礼拝させられることは、結局はそれは心をねじ曲げられるということだと思う。心を壊されるということだと思う。ただそういう格好をしていればいい、信じてなくても頭をさげておけばいいんだと自分で納得できることであるならばいいのかもしれないけれど、信じてないのに、頭なんか下げたくないのに下げさせられるということは、心を壊されるということにもなるんだと思う。
私たちの心を守っていこう、神はそんな私たちの心を大事にしてくれる、ダニエル書はそのことを伝えているのではないかと思う。偶像を拝まなかった3人は偉いとか立派だとか、私たちも偶像崇拝をしないようにしましょうとかいうことではなく、私たちの思い、信念、つまり私たちの心を大事にしようということなんじゃないかと思う。
そうでないから
まあしかしこの3人はそうすることで命も守られたから良かったわけだけれど、現実にはそうそううまくいかない。無理矢理偶像を拝まされることもあっただろう。信念を曲げざるを得ないこともあっただろうと思う。
ダニエル書の3人はたとえそうでなくても、たとえ神が救ってくれなくてもそうしないと言ったけれど、実際にはそうではないからこそ、必ず神が助けに来てくれるとは限らないからこそ、ほとんど助けに来てくれないとしか思えないからこそ大変なのだ。
それでも、殺されても信仰を守り抜くことが大事なのだろうか。というかそうじゃないと赦されない、認められないのだろうか。
遠藤周作の沈黙を思い出す。だいぶ昔に読んだので不確かだけど、踏み絵を踏め、そうじゃないと処刑されるという状況に追い込まれた宣教師の話だったと思う。自分の信仰的にも、宣教師という立場上も、踏み絵を踏むことは赦されないことは明白だ。踏んでしまった後裏切り者として、落伍者として生きることもつらい。しかし踏まないことで拷問され処刑されることもさらにつらい。そんな時に、踏みなさい、いいから踏みなさいというイエスの声を聞くという話しだったと思う。
まさしくそうでない世界、神がいつでも助けにきてくれるわけではない世界に私たちは生きている。しかしたとえ私たちが圧力に屈服したとしても、偶像を拝まされたとしても、でもそこにも神はいてくれている、そんな私たちとも共にいてくれる、私たちの神はそんな神なのだと思う。どんな時にも一緒にいてくれている、そんな神だ。
だからこそ私たちはこの神を信じている。たとえ転んでも倒れても一緒にいてくれている、だからこそこの神以外のものを神とは信じられない。
偶像崇拝は赦されないから拒否しないといけない、それが罪だからしてはいけないと教えられているからというよりも、弱い私たちと徹底的に一緒にいてくれる、どんな時でも一緒にいてくれる、そんな神だからこそこの神を信じていこうと勧めているのだと思う。
無理矢理拝まされたり、したくもないことをさせられたり、やりたいことをさせてもらなかったりすることもあるかもしれない。しかしそうやって心を傷つけられ、ねじ曲げられ、ぼろぼろにされるような時にも、神は一緒にいてくれている。私たちの神はそんな神だ。だからこそこの神を信じている。