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礼拝メッセージより
解体
先日から隣のかまぼこ屋さんを解体していて、昨日でひとまず終わったようだ。平日の昼間は毎日揺れていて、さすがに気持ちのいいものではなかったけれど、3階建ての建物が少しずつ壊されていくのを見るのは結構面白かった。周りをシートで覆っていたけれど、最後の方は2階の牧師館ののバルコニーから解体の様子が見えるようになっていた。
大きな重機の先端に大きなペンチのようなものをつけて、挟み込んでコンクリートを細かく砕きながら建物を少しずつ壊していく様子を面白く見ていた。やけに鉄筋が多いなと思った。鉄筋コンクリートだから当たり前なんだろうけれど、コンクリートを砕く度に中から鉄筋が現れてくるようだった。鉄筋は周りのコンクリートをいろんな方向から崩して出てくるので、どれも曲がりくねっていた。そして鉄筋だけをある程度集めて重ねてから、でっかいペンチでかしめてバラバラにならないような塊にしていた。そうすると後で運びやすいんだろうなと感心していた。
昨日で建物も全部なくなって、まわりのシートも全部外されたら、今朝はそっちの方向から教会に光が入っていて、いつもより明るくてびっくりした。
幻
エゼキエル書40章から、エゼキエルがエルサレムの神殿についての幻を見せられる。そこには「我々が補囚になってから二十五年、都が破壊されてから十四年目」と書いてある。つまり第1回バビロン捕囚から25年、紀元前573年頃のことだそうだ。エルサレムは破壊されて神殿も燃やされてなくなっていた。そんな時に見せられた幻が神殿に神の栄光が帰ってくるという幻だった。現実には神殿はもうなくなっている、神とのつながりを持つ術もなくなってしまった、と思っているような時期だった。そんな時にエゼキエルは神殿とそこに神の栄光が帰ってくるという幻を見せられた。今はないけれど、新たな神殿を持つ、また神との繋がりを持つときが来る、自分達は神から見放されてはいない、そんなことをエゼキエルは神から示されたということなんだろう。
鉄筋
イスラエル人たちは神とのつながりを全てを無くしていた、と思っていたのだろう。第1回の補囚の後もまだ神殿はあり、神の助けによってまた元の国に戻る、また以前と同じように独立するという希望を持っていたらしい。しかしその後の戦いに破れ、エルサレムの町も破壊されて神殿も焼かれてからは、淡い期待もなくなってしまっていたのだろうと思う。神には頼れない、自分達の神に祈る術もなくしてしまった、そんな思いだったのかなと思う。
補囚されていても決して奴隷ではなく、それなりに自由も与えられていたそうなので、奴隷のような過酷な生活をしていたわけではないそうだ。苦しくて苦しくて、一刻も早く助けてもらわないとどうにもならない、ということではなかったようだ。それなりに生活できていたんじゃないかと思う。
でも彼らはそこでそれまでの自分達のことを振り返り、聖書をまとめていった。そこで反省したわけだ。郷に入れば郷に従えというけれど、それなりに生活できれば外国であってもその土地で生きていけばいいんじゃないか、その土地に染まってそこに根付いてもいいじゃないのかという気もするけれど、彼らはそうではなかった。自分達の土地へ帰っていくことを求め続けていたようだ。それはどうしてなんだろうか、そう願い続ける力はどこからくるんだろうか。
それなりに生活はできていた、けれど何かが足りなかったんだろうなと思う。外側からはわからない芯が足りなかったんじゃないかと想像した。
ある少女の話を聞いたことがある。だいぶ昔の話しでかなり不確かだけれど、その子の母親はヨーロッパ中を駆け回っている女優だったかモデルだったかで経済的には裕福だった。ある年のその子の誕生日も母親は仕事で外国に行かないといけなかったけれど、誕生日プレゼントにきれいな花瓶を送った。けれども少女はその花瓶を投げつけて割ってしまって、「私が欲しいのはお母さんよ」と言ったという話し。
物はそろっていても、溢れていても、大事なものがなければ空しいままだ。イスラエルの人達にとって、その大事なものがなんなのかを補囚を通して改めて知ったんじゃないかと思う。神殿を通して持っていた神との繋がりを、神殿を無くすことでその大切さを改めて知らされたんだろうと思う。だからその大切なものを求め続けてきたのだろう。
どうやら大切なものは見えないものらしい。コンクリートの中の鉄筋みたいなもののようだ。鉄筋がないと建物はすぐにくずれてしまうだろう。外からは全く見えない鉄筋で守られている。
人生とか生活もそうなんだろうなと思う。物もいっぱい持っていれば立派な人生に見える。でもそこで筋が入っているかどうか、鉄筋のような硬い筋があるかどうか、本当はそこに人生はかかっているのだと思う。
信仰も見えない、神も見えない、でもそれがあるとないとでは全く違う人生になるのだろう。
人生の最後は祈りなんじゃないかという気がしている。何もかもなくして最後にできることは祈りしかないんじゃなかと思う。
だから祈る相手を持っている、祈る相手がいる、それはすごい幸せなことだと思う。
イスラエルの人たちは神殿をなくすことで、神とのそんなつながりを無くしてしまったという思いを強烈に抱いていたのだろうと思う。離れた土地に暮らすことによって余計にその大切さを思い知らされていたのだろうと思う。
そんなイスラエルの人達への神からの応答、それが今回の幻だったんじゃないかと思う。イスラエルの人達へ、もう一度神殿を与えるということを通して希望を与える、それが今回の幻だったんじゃないかと思う。
人生を支える鉄筋、神との繋がりという鉄筋をあなたたちに持って欲しい、そんな神の意志をエゼキエルは伝えたのだろう。それはまた私たちに対するメッセージでもあるのだろう。