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礼拝メッセージより
枯れた骨
エゼキエルが見せられた幻。ある時ある谷の真ん中に降ろされた。スターウォーズの宇宙船でそこに連れて行かれたかのようだ。その谷は骨でいっぱいであった。その骨は枯れていた。
主は、これらの骨は生き返ることができるか、と言われたがエゼキエルは、あなたのみがご存知です、と答えた。
主は、骨に向かって主の言葉を語れという。その内容は、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む、するとお前たちは生き返る、ということだった。
そうすると骨が骨が近づいて、筋に肉ができて、皮膚もできた。でもその中には霊がなかったという。
そこで主は、霊に向かって、これらの殺されたものの上に吹き付けよ、そうすれば生き返る、と預言しなさいと言われ、その通りすると霊が彼らの中に入り生き返った。彼らはとても大きな集団となった。
そこで主は、今見せたのはイスラエルのことだと言う。彼らは自分達の骨は枯れて、望みもなくなった、もう滅びるのだと言っている。そんな彼らを墓から引き上げてイスラエルの地へ連れて行く、と神は言うのだ。
バビロン捕囚
実際補囚された民がどんな状況だったのかというと、王から課せられた労働はあったそうだが、強制労働ばかりの奴隷のような生活を過ごしていたわけではなかったそうだ。
政治活動は禁止されたが、商売なども比較的自由であったらしい。計税的に苦しい人もいたが、だんだんと適応に成功し、いろいろな職業につくようになり、やせた牧草地で農業をしていたイスラエル時代より裕福になるような民も多くなってきたそうだ。
そうすると経済的にも労働環境も枯れた骨といわれるような状況ではないようにも見える。しかし彼らは、我々の望みはうせ、我々は滅びる、なんてことを言っていたらしい。経済的な問題がなければそれで大丈夫というわけではないらしい。お金さえ足りていればそれ以上何か問題はあるのかと思うけれど、やっぱりそうじゃないみたいだ。
霊、風、息
今日の聖書の話しの中で、骨がくっついて肉ができて皮膚もできたけれどもその中に霊がなかった、という話しがあった。肉体としての人間は完成されても、それだけではまだ足りないものがるということだろう。ここで言われている霊というもの、それが吹き付けることで初めて生きるという状態になる、そういうものがやはり人間には必要なのだということなんだろうと思う。
霊というとなんだか幽霊みたいなものを想像してしまうけれど、そうじゃなくて、神から与えられる命の素とでもいうようなもの、それがやっぱり必要なんだろうと思う。
この霊という言葉はヘブライ語ではルーアハという言葉だそうがだ、風とか息とかにも訳せる言葉なんだそうだ。口語訳では息と訳していた。神の息という感じだろうか。そんな神の息によって私たちは生かされているいうこと、ただ心臓や内臓といった身体が動くようになるということよりも、神の息を吹きかけられることによって心を持つようになる、心が動くようになるということだろう。
バビロンへ補囚された民たちは、神殿も破壊されエルサレムの城壁も崩されて、遠い異国の地へ連れてこられている。特に神殿という、自分達と神との繋がりの象徴をなくしてしまっている。神との関係は絶たれた、神との関係を持つすべはもうない、もう神に望みを置くことはできない、神は助けを求めることもできない、自分の力だけで生きなくてはいけない、しかし無力な自分がこれからどう生きていけばいいのか、そんな思いでいたのではないかと思う。
経済的にはそれほど困っていなかったのかもしれないが、生きる希望を持てない、将来に希望を持てない、ただただ不安しかない、そんな生きる屍のような思いで過ごしていたということなんだろうと思う。だからこそエゼキエルは骨だらけの谷におろされるという幻を見せられたのだろうと思う。
そんなイスラエルの人達を私はもう一度生き返らせる、そして自分達の土地へ住まわせる、そう言われている。
希望
新約聖書のコリントの信徒への手紙一13:13に「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。」と書かれている。
希望があれば人間は生きていける。昔どこかで聞いた話しだけれど、自分の家が火事で焼けてしまった時に、これで星がよく見えるようになった、と言った人がいたそうだ。何もかもなくしても、少しでも希望があれば生きていけるだろうと思う。兎に角希望さえあれば一歩を踏み出せる。
しかしその希望をなかなか持てないのも現実でもある。思うようにいかないことが実に多い。
教会の財政も厳しいし、礼拝の人数も減るばっかりだし、そんな中で希望を持ち続けることができるのだろうか。
教会のこともそうだけれど、個人的にも経済的なことであったり、健康であったり、人間関係であったり、みんなそれぞれにいろんな苦しい大変なものを抱えて生きているだろう。こうなって欲しいと願うことがなかなか叶わないということも多い。目に見える成果があればそこに希望を持つことができる。けれども目に見える成果が何もないような時はどうしたらいいんだろうか。
すがりつく
潔のかあちゃんのことを思い出した。潔という友達がいた。父親は牧師だったが、晩年にアルツハイマー病になり、それまで優しかったのに冷たい事を言ったり、いやなことがあると突き飛ばしたりすることもあったそうだ。引退後は二人でゆっくり過ごすつもりでいた潔の母ちゃんだったが、それも叶わず、だんだんと暴言を吐いたり無口になったりする夫の世話に疲れ果ててしまうようになったそうだ。
その母ちゃんが手記の中で、イエス・キリストが十字架につけられた時に言った言葉、わが神わが神どうして私を見捨てたのですか、という言葉にすがりついていた、と書いてあった。
祈っても祈ってもよくならない、だんだんと悪くなるような状況で、どうしてこんなことになるのかと思うばかりだったらしい。神よどうして私を見捨てたのか、と言うしかない状況で、しかしそこに同じように、どうして私を見捨てたのだと言うイエスがいた、そしてその言葉にすがりついていた、と書いてあった。
風に吹かれて
最後の希望はそこにあるんじゃないかと思う。私たちの信仰は、どうして私を見捨てたのかという時にも、ひとりじゃないこと、すがりつくものがあるということ、そこにもイエスがいてくれること、そこに最後の希望があるんじゃないか、そしてそれは最高の希望じゃないかという気がしている。
私たちが絶望の淵に立たされていると思う時、全く未来が見えない全く希望を持てないと思う時、そこにも神の霊が、神の息が、神の風が吹いている。私たちはどんな時も、その風に吹かれて生きている。見えない神の風に吹かれて生かされているのだ。