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礼拝メッセージより
時代
バビロニアとの戦いに負けたユダ王国は、ヨヤキン王がバビロンに連行されエゼキエルもこの時バビロンへ補囚された。バビロニアはゼデキヤをユダ王国の王として立てるが、ユダの国内では親バビロニア派と親エジプト派の抗争が起き、結局親エジプト派が強くなってバビロニアに対して反乱を起こす。しかし返り討ちに遭い、ゼデキヤ王は捕らえられ、エルサレムは破壊されて、神殿も焼かれ、貧しい者たちを残して多くの者がバビロンへと補囚され、ユダ王国は滅んでしまった。その時期のことのようだ。
最初の補囚でバビロンにいたエゼキエルは、預言者として神に召されてからのち、しばらくの間何も語らなかった時期があったようだ。
見張り人の役割については神がエゼキエルに語ったことが、3章17-21節に出てくる。
しかし3章22-27節ではそれに続けて家に閉じこもっていろ、沈黙していろと言われている。でも27節ではこう言われている。
「しかし、わたしが語りかけるとき、あなたの口を開く。そこであなたは彼らに言わねばならない。主なる神はこう言われる。聞き入れようとする者は聞き入れよ。拒もうとする者は拒むがよい。彼らは反逆の家だから。」
そして今日の33章でもまた見張り人について繰り返し語られている。3:27で言われている、わたしが語りかけるときあなたは口を開く、という時がやってきたということなんだろうか。
33章で再び見張り人の話しをする。沈黙を破る時がやってきた、そこで再び預言者としての使命を告げたというかもしれない。見張り人がその務めを果たせば責任は問われないが果たさなければ責任を問う、というようなことが語られている。神の言葉を民にしっかりと告げなさい、それがお前の務めだ、民がそれを聴こうが聴くまいが語りなさいということのようだ。
希望喪失
エゼキエルも連行された第1回のバビロン捕囚の後には、まだ国もあり神殿もあり、自分達の力でまた強い国を取り戻せるという思いを持っている人達も多くいたんだろう。そこでエジプトの力を借りてバビロニアに対抗しようという気運も高まってきた。そんな元気もあったわけだ。そしてバビロニアに反逆をしたけれども返り討ちに遭ってしまい、国もエルサレムも神殿も何もかもなくしてしまった。希望を打ち砕かれてしまったことだろう。
でもそこで初めてイスラエルの民は自分達の背きと過ちに思い至るようになったんじゃないかと思う。かすかな希望も消え失せた、そんなどん底で、彼らは自分達の現実を見つめ直したんじゃないか、というか希望をなくして前を見ることが出来なくなったから、過去を振りかえざるを得なかったのかもしれないと思う。そこで彼らは自分達の過ちを見つめ直したのだろう。しかしそこでの結論は、我々はやせ衰える、どうして生きることができようか、というものだった。
国も町も神殿も何もかもなくして、どうやって生きていけるのか、しかも自分達の過ちによってそんなことになってしまって、もう死ぬしかない、もう希望はない、それがイスラエルの民の結論だった。
生きて欲しい
そんな民に向かって神は語りかけたというわけだ。
「お前達はこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬことを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」
「わたしは生きている」と言うのは旧約聖書によく出てくる、「神は生きている」というのと同じような誓いの言葉として言う時の決まり文句だろう。誓って言うとか、これは本当に真実だ真心だ嘘偽りのない言葉だ、というような意味だろう。
そうやって神が語気を強めて語った言葉が、お前たちが悪しき道から立ち帰って生きることを喜び、立ち帰れ、立ち帰れ、ということだった。
どん底にいる民に向かって神は、立ち帰れ、立ち帰れと。私の所へ帰ってこい、私と共に生きて欲しいと語る。
どん底で
これはまた私たちに対する言葉でもあると思う。あの時あんなことをしてしまったから、あの時これをしなかったから、そのために今こんなことになってしまった。結局は自分の所為だ、自分が駄目だったから、自分が間違ったから、こうなってしまっている。今更どうしようもない、気力もない、どうして生きることができようか、もうなんの希望もない、お先真っ暗だ、もう死を待つしかない、そんなことを思っている私たちに、どん底に落ち込んで倒れている私たちに対して神は、お前が死ぬのを喜ばない、お前が生きるのを喜ぶ、私はいつも一緒にいる、だから私と一緒に生きて欲しい、私がお前を生かす、私がお前を支える、そう言っているに違いないと思う。