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礼拝メッセージより
うがつ
8節に「人の子よ、壁に穴をうがちなさい」という言葉がある。『うがつ』という言葉はあまり使わないよなあ。「うがちなさい」の前に「穴を」とあるからあけなさいという意味だと分かるけど、「うがちなさい」だけだと何?と思いそう。口語訳だと「あけよ」となっている。なんでわざわざ「うがつ」にしたんだろうか。訳した人が、こんな言葉だって知ってるんだぞと自慢したかったんじゃないか、と思うのはうがった見方なんだろうか。九州訳の聖書だと「穴をほがせ」となっているに違いない。
エルサレム
補囚されていたバビロンの地で預言者として立てられたエゼキエルは、神の言葉を民に伝えるようにと言う神の言葉を聞いていく。民が聞いても聞かなくても語りなさい、なんてこともと言われる。
そして今日の所では、神の手によって髪の毛の房をつかまれて、幻の内にエルサレムに神殿に連れて行かれ、そこで見せられた光景が書かれている。髪の毛の房って?。エゼキエルは髪を束ねていたということなんだろうか。
エルサレムの神殿には、北に面する内側の門の入り口に激怒を起こさせる像があったり、壁一面にはあらゆる地は這うものと獣の憎むべき像、およびイスラエルの家のあらゆる偶像が彫り込まれていた。その前に、イスラエルの長老70人がシャファンの子ヤアザンヤを中心にして立っていて、彼らはそれぞれ香炉を手にしていてかぐわしい煙が立ち上っていた。
シャファンとは、かつてヨシヤ王の時代に神殿から律法の書が見つかって、それを聞いたヨシヤ王は律法の書が禁じている偶像崇拝をしていることを知って宗教改革をしたということがあった、その宗教改革のきっかけを与えた律法の書をヨシヤ王の前で朗読した書記官だったそうだ。その書記官の息子であるヤアザンヤを中心にしてイスラエルの長老たちがみんなで禁じられている偶像崇拝を先導しているということだ。
また北に面した門の入り口では女たちがタンムズ神のために泣きながら座っていて、主の聖所の入り口では聖所を背にして太陽を拝んでいた。タンムズ神とはメソポタミアの豊穣の神だそうだ。
エルサレムの主の神殿なのにそこでは偶像崇拝が満ちている、それがエゼキエルが見せられた幻だった。
ねたむ神
神殿の北の入り口に「激怒を招く像」があった。前の訳では「ねたみの像」と訳している。前の訳では聖書の他の箇所でも、主はねたむ神だと言われている。新共同訳では熱情の神となっているが。
出エジプト記20章に十戒があるが、その中に「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。」(出エジプト記20:3-6)
神がねたむなんておかしな話しだなとずっと思っていた。
8:12に「彼はわたしに言った。「人の子よ、イスラエルの家の長老たちが、闇の中でおのおの、自分の偶像の部屋で行っていることを見たか。彼らは、主は我々をご覧にならない。主はこの地を捨てられたと言っている。」とある。
神なんだから人がどうしようと平然としていればないかと思う。人が自分の言うことを聞かなかったり間違ったことをしたのならば、たんたんを裁きを行えば良いんじゃないかと思う。神だったら冷静に冷酷に罰を下すのが本当なんじゃないのかと思う。
でも主なる神はどうやらそうではないらしい。人が他の神を礼拝すると、それに対して怒ったりねたんだりするらしい。
お前等はどうして他の神を拝むんだ、どうして私が見捨てたなんて言うんだ、そんなことしてたらお前等のことはもう知らないぞ、話しも聞いてやらないぞ、そんな風に言っているような気がしている。まるで痴話げんかでもしているかのように感じる。
愛おしい
怒ったりねたんだりするのは、結局はそれは愛情の裏返しのように思う。ばかやろう、俺がこんなに大事に思っているのに、こんなに心配してるのに、どうして他の神のところへ行くんだ、どうして捨てられたなんて思うんだ、こんなに愛してるのがどうして分からないのか、なんだかそんな風に言っているような気がしてきている。
こんなに愛している、こんなに大事に思っている、どうかそのことを分かって欲しい、その気持ちを受け止めて欲しい、そして私と共に生きて欲しい、神のそんな切実な願いがこの話の底に流れているんだと思う。