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礼拝メッセージより
アハブ
ソロモン王の死後、イスラエルは南北に別れ、それぞれに王が立てられるようになる。権力争いを勝ち抜いた者が王となっていく様が聖書には書かれている。
16章の最後のところにアハブ王について書かれている。北王国イスラエルの7代目の王。紀元前869年に王になったそうだ。周辺諸国と同盟を結ぶなどして、大国アッシリアに対抗するなどし、国を大きくした。
そういう関係もあったのか、シドン人の王の娘イゼベルを妻に迎えて、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。バアルの神殿やアシェラ像を造り、それまでのどの王にもまして、主の怒りを招くことを行ったようだ。
その怒りの結果が干ばつであった。そしてそのことを告げるためにエリヤがアハブ王のところに遣わされている。
神の言葉
そこに突然エリヤという預言者が登場する。彼はヨルダン川東岸ギレアド出身の預言者でアハブの悪政を見て、北王国の首都サマリアまで行き、王に神の言葉を伝える。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」(17:1)。
パレスチナは乾燥地帯であり、秋から冬にかけて雨が降らないとすぐに干ばつになるそうだ。もともとカナン地方にいた人々はバアルと呼ばれる神を拝んでいた。バアルは太陽と雨を司るとされた農業神だそうだ。雨を降らしてくれて作物を育ててくれ自分たちを豊かにしてくれる神であるというバアルはとても魅力的だったのだろう。イスラエルの民はパレスチナ入植と共に、このバアルに惹かれていったようだ。
エリヤがどういう人だったのか、王との関係はどうだったのかよく分からないけれど、自分が告げるまでは数年間雨が降らないなんて話しは王にとっては面白くない話しだっただろう。また時の権力者にそんなことを言うということは自分の身も危険にさらすことになる。
そこで、それに続けて、主の言葉がエリヤに臨む。
「17:3 ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。17:4 その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」
逃げろ、ということだろう。干ばつを預言しその通りになることで、それを預言した輩としてアハブ王から狙われるからということなんだろうと思う。
エリヤは神の命令通りにヨルダン川の東のケリトの川のほとりに身を隠した。そこでは烏が朝晩パンと肉を運んで来たと書かれている。烏は宗教的に汚れた鳥とされていたそうだが、神はその烏を使ってエリヤを助けたということか。そんなことあるのかと思うが、ある牧師は、「へブル語の烏=クリビームは別の読み方ではアラビーム=アラブ人と通じます。おそらくは故郷のアラブ人(遊牧民たち)がエリヤをかくまったのでしょう。」と書いてあった。パンと肉というのは結構ごちそうなのだそうだ。
烏だったのかアラブ人だったのかはっきりとはしないけれど、とにかくエリヤはそこで養われた。
そしてケリトの川の水を飲むように、と言うのが神の命令があったが、やがてその川の水も涸れた、という。
神の使い
エリヤはケリトの川が涸れたあと、また神の言葉を聞く。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」というものだった。そしてエリヤはその言葉に従いサレプタという町に向かい、そこで自分を養ってくれる人と出会う。
エリヤを養った女。それは一人のやもめであり、一食分の食料しか持っていない、それを食べて死を待つだけだ、と言う人だった。
やもめはエリヤから最初に、エリヤの為にパン菓子を作り、その後に自分と息子の分を作れと言われる。主なる神が、雨を降らせるまでは粉も油もなくならないといわれているからだ、と言われる。そしてその通り、粉も油もなくならなかったと書かれている。
しかし本当にそんなことあるのだろうか。その後そこの息子が病気にかかり息を引き取ったけれども、生き返ったということが書かれている。その息を引き取った時に、その家の女主人(いつから女主人?)が、「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」と言っている。この罪とはなんのことなんだろうか。この家は2階があると書かれていて、当時は2階がある家は裕福な家らしくて、本当は粉も油も十分あって、やもめが嘘をついていた、その嘘がここでいう罪だったとも考えられなくもない、というようなことを言っている人がいた。
僅かの粉と油だったのか、本当はいっぱいあったのか分からない。けれど、エリヤがこのやもめに養われたことには違いない。ケリトの川のほとりでは烏だったのかアラブ人だったのかわからないけれど、とにかくそこでエリヤは養われた。
神さまは奇跡的な方法を用いるのか、そうじゃないのか分からないけれど、とにかくエリヤに対して、そこであなたを養わせる、と言われたことを実行された。
養う
私たちは誰に養われているんだろうか。自分で稼いで自分の力で自分を養っているんだろうか。あるいは親や家族の誰かの稼ぎで養われているんだろうか。あるいは他の誰かに養われているんだろうか。
自分の今日の食料は、自分や家族が稼いだ金で買ったもので、神に与えられたものではないと考えることもできる。しかしその食料を作ったり育てた人がいて、その食料となる生き物がどうやって成長したのか、どうして成長できているのか、なんてことは何も知らない。そもそも自分の食べる物、その命を自分の力で生みだして育てるなんてことは人間にはできない。
水だって、今は水道の蛇口を捻れば出てくるけれど、根本的には雨として降ったものを飲んでいるわけで、人間は自分の力で雨を降らせることもできない。
水も食料も、人間は自分の力で全部用意することなんてのは所詮無理な話しであって、自分の知らないところで準備されたものを食べたり飲んだりしているわけだ。お金を出して買っているから、誰にも養われないで自分の力で生きているような気になっているけれど、それは最後の最後に誰かから譲り受けるためにお金を出しているに過ぎないと思う。
実は私たちの見えない所で、私たちの知らない所でそれを準備してくれている神によって養われているんだ、食料だけではなく私たちの人生全てを、私たちの見えない所から神によって支えられているんだ、ということを今日の聖書は伝えているんだと思う。
神を信じて祈ったらカラスが食料を運んでくるなんてことはないだろう。しかし時には誰かを通して、時には全く別の方法によって、私たちの想像も出来ないような方法で、あるいは私たちが気付きもしない方法かもしれないけれど、いろんな仕方で神は私たちを支えてくれているのだ。
神はそうやっていろんな形で恵みを与えられる。それがどういうかたちなのか私たちには分からないことが多い。恵みを与えてくださいと祈る。しかし神が玄関に立って、これがその恵みですと持って来てはくれない。恵みは私たちの期待した通りに、与えられるとは限らない。私たちの願い通りとは限らない。奇跡的なことを起こして欲しいと願うことも多いけれど、奇跡的なことなんてそうそう起きないようだ。じゃあ神は何もしてくれないのか、知らぬ顔なのかと言うとそんなことはなくて、思わぬ形で私たちが思いもしない仕方で私たちに恵みを与えてくれているのだと思う。
私たちの見える範囲は狭い。特に苦しいことや大変なことに直面すると、そのことばかりに目を奪われてしまう。思うようにいかない現実、自分を苦しめる現実に目を奪われてしまう。
しかし私たちは見えるものだけではなく、見えないものによって取り囲まれている。神も見えない、しかし神は見えないところで、見えない方法で私たちを支えてくれているのだ。見えない所から私たちを愛してくれているのだ。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙二 4:18)
神が見えないところで私たちを支えてくれている、愛してくれている、そのことを信じられることは嬉しいことであり、幸せなことだ。だからこそ私たちは見えないものに目を注いでいきたいと思う。