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礼拝メッセージより
干ばつ
イスラエルの国のアハブ王は先祖代々信じてきた神、聖書の神、主、ヤハウェを信じないで、外国の神であったバアルを信じるようになった。その時エリヤはアハブ王に対して「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」(17:1)と語った。そしてそれから3年目のことであった。どうやらエリヤの言葉通りに干ばつになったようだ。パレスチナ地方は11月から3月にかけてが雨期で、5月から10月までが乾期で、3年間の干ばつということも時々あったそうだ。
身を隠していたエリヤは再びアハブ王の前に姿を現すことになった。丁度、水を捜し求めていたアハブ王の宮廷長オバドヤと出会い、アハブ王にそのことを知らせてもらいエリヤとアハブ王は再会した。
お前が悪い
アハブ王はエリヤを見るなり、「お前か、イスラエルを煩わす者よ」(18:17)と言った。17章でエリヤはアハズ王に雨が降らないことを直接言ったように書いてあるけれど、ここを見るとなんだかアハズ王はエリヤに初めて出会ったかのようだ。雨が降らないと言ってイスラエルを煩わしているという噂を聞いていたが、それがお前なのか、と言ったように聞こえる。
アハブ王はシドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。そしてバアルの神殿を建て、バアルの神殿を築き、アシェラ像も作ったという王だった。イスラエルの北に位置するアラムと対抗する為に、シドンのあるフェニキアと同盟を結ぶための結婚でもあったようだが、そのためにバアルやアシェラという偶像を国に持ち込むこととなり、自らもこの神々を信奉することとなったようだ。
そんなアハブ王にとってエリヤが、雨が降らないと言った言葉はどう聞こえたのだろうか。17章では、エリヤはそのことをアハブ王に告げた後身を隠して烏ややもめに養われたということが書かれているけれど、アハブ王にとっては、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」なんて言われても、そんなことあるわけないとしか思わなかったんじゃないかと思う。どこの神を信じていても大した変わりはない、妻の信じている豊穣の神々、それはイスラエルの人達がやってくる前からこの土地に住んでいた人たちが信じてきたこの土地の神でもあるわけだが、その神に祈って何が悪いのか、と言ったところだったんじゃないかと思う。先祖が信じていた神を今更持ち出してどうしようというのか、というような気持ちだったのかもしれない。
アハブは自分が主を礼拝しないでバアルやアシェラという神々を礼拝しているために雨が降らないのかもしれない、なんてことはほとんど思っていないようだ。エリヤという奴がそんなことを言っているらしいが、そんなことあるわけない、エリヤがおかしなことを言うからバアルの神が臍を曲げて雨が降らない、といったところなのだろう。
質問
エリヤは18章でアハブ王と会い、バアルの預言者450人と、アシェラの預言者400人とカルメル山という山で対決することを提案している。
エリヤは集まった民に向かって、主が神であるなら主に従え、バアルが神であるならバアルに従え、と決断を求める。しかし民はひとことも答えなかった。どちらが本物の神であるかと問い掛けられたが民は答えられなかった。
18章の前半のところを見ると、アハブ王の妻イゼベルが主の預言者を殺したというようなことが書かれている。本心は主が神であると思っていても、権力者が弾圧している方の神に従うとはなかなか言いづらい。それにそもそも民にとって、どっちが本物の神であるのかということを判断する材料自体があまりなかったのかもしれないと思う。かつて自分の先祖をエジプトから救いだしてくれたという話しは聞いていたかもしれないけれど、それも遠い昔の話しであって、その神が今も自分たちの神であるのかどうか、今も自分達に関わり守ってくれているのかどうか、突然聞かれても案外答えようがなかったんじゃないかという気もする。
対決
エリヤは、雄牛を裂いて薪の上に載せ、神に火をつけてもらおう、火をもって答える神が本物の神であるはずだ、と提案する。
バアルの預言者は祭壇の周りを跳び回り、大声を張り上げ、身体を傷つけながら祈りつづけたが何も起こらなかった。一方エリヤは先ず民を近くに来させて壊された主の祭壇を修復した。そして献げ物の上に水をかけ、祈った。「あなたが先祖から信じてきたまことの神であり、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが明らかになるように。私に答えてください。そうすれば民はあなたが神であり、彼らの心を元に返したのはあなたであることを知るでしょう。」すると主の火が降って献げ物も薪も石も塵も水もなめつくした。
ここで民は「主こそ神です、主こそ神です」と言った。民はこの対決で初めて神の存在を身近に感じたんじゃないかと思う。どちらが本当の神なのかという判断材料を手に入れた、だから主こそ神です、と言えたんじゃないかと思う。
隠れている神
こんな風にはっきりと神の力を感じることができたらいいなと思う。火を送って下さいって祈ったら火が降ってくる、なんてことになったらいいのになと思う。神さまがそうやって何でも言うとおりやってくれたら良いのにと思う。そしたらお金が足りませんって祈ってお金をいっぱいもらって、頭をよくしてもらって、ハンサムにしてもらって、いい人間にしてもらって、そして嫌いな人間をやっつけてもらうのに、なんて思う。
でも実際には神は自分たちの思い通りになんでもしてくれるわけでもない。目の前に現れてこうしなさいと言われる訳でもない。エリアのように祈ったら天から火を送ってくれるようなことがあったら、それを宣伝したら教会ももっと大きくなれるかも、なんて思う。
旧約聖書の多くがまとめられたのはバビロン捕囚の時期だそうだ。国が滅びて、指導者の多くが敵の国に連れて行かれた、そこでまとめられたようだ。一体何故国が滅びてしまったのか、どうして補囚などということになってしまったのか、これから一体どうなるのか、そんな苦しい状況の中にいる人たちに向けてまとめられたものだ。
国が滅びるということは相手側の神の方が強いから、そっちの方が本物だから、と考える人たちもいたようだ。しかし自分たちの国が滅んだのは、主なる神が偽物の神だからでも、弱い神だからでもない、自分たちがこの神を信じなかったから、この神に従わなかったからだ、ということを伝えている。
バアルの預言者450人と一人で対決したエリアのように、バビロンに補囚されている民は危機的な状況の中にある。しかしそんなエリアを勝たせたように、自分たちも決して見捨てられはしない、見捨てられてはいない、神は必ず守ってくれる、この危機的な状況から救い出してくれる、だから自分の信じる道を貫いていけば大丈夫だ、今日の物語はそんな希望を民に与えたのだろうと思う。
見えない火で
今の私たちの教会の状況に似ているような感じがしている。だんだんと人数も減ってきて、お金も大変でこの先どうなるのかと心配が山のようだ。けれども決して見捨てられたわけではない。神は見えないけれど、でもしっかりと支えてくれている。神は見えないところから、そして今は見えない火をもって私たちに関わってくれているのだと思う。エリヤの時には見える火で犠牲の牛を燃やしたけれど、今は見えない火で私たちの心を燃やしてくれるのだと思う。
だから人数に捕らわれるな、たとえ一人になったとしても大丈夫だ、たとえこの世で一人だとしても神が味方なんだから、人数は問題ではない、あなたは自分の信じる道を突き進め、神はそう言われているのではないか。神は見えない火でもって私たちを励ましてくれている。