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礼拝メッセージより
人口調査
人口調査ってなんなんだろうか。国勢調査みたいなものなんだろうか。何のために人口調査をしようとしたのか。結果的には戦力を把握している。国の強さを知りたかったのか。
誘惑
主がダビデを誘われたと書かれている。悪いのは神じゃないか、と言いたくなる。私たちにもいろいろな誘惑がある。持って生まれた欲望がある。それは神から授けられた誘惑というようなものでもあるのかも。
権力者にとっては民のことを何でも知っていたいという欲望があるのかもしれない。人口を調べて、税金をどれ位集めることができるとか、戦争になった時に兵隊をどれ位集めることができるとかいうことは知っておきたいだろう、というか当然知っておくべきなんじゃないかと思う。
しかし民を数えたことがダビデの心に呵責となった、ということは民を数えることが悪いこと、罪であるということを知っていたということなんだろう。ヨアブが一度ダビデを諫めていることからすると、民を数えることが罪であると誰もが知っていたということだろうと思う。罪であるということは知っていたけれど、その誘惑には勝てずにやってしまって、そのことを後悔しているということなのかなと思う。
疫病
やっちまったと思って神に赦しを乞うたけれどもそう甘くはなかったようだ。預言者であり先見者であるガドがやってきて、7年間の飢饉か、三ヶ月敵に終われて逃げることか、三日間の疫病か、どれかを選べと言われる。ダビデが疫病を選んだために七万人が死んで、エルサレムにも被害が及びそうになったところで、主が思い返した、そしてエブス人アラウナの麦打ち場に祭壇を築けと言われ、その土地と牛を敢えて買い取って献げ物を献げて、疫病はやんだという話しだ。
エブス人というのはもともとエルサレムに住んでいた部族だそうで、その祭壇を築いたところに、後にソロモンが神殿を建てることになったそうだ。神殿がそこに建てられることになった経緯を語る逸話ということなのかもしれない。
「神さまのすることは何がなんだか、さっぱり分からないという感じです」と聖書教育に書いてあったけれど、今週もすんなり理解できるような話しではないなあと思う。民を数えてはいけないんだろうか。
なんで民を数えようとしたんだろうか。ただ単純に知りたかったというわけではないだろう。兵士となれる人の数を知ることで安心したかっただろう。逆に言うとそれほど不安だったんじゃないかと思う。不安にかられてしまって、どうしようもなくなって、ヨアブの反対も押し切って強引に数えたということなんだろうと思う。
不安を神に訴える、神に祈るということをしないで、目に見える数を知ろうとした、安心できる材料を手に入れようとしたんじゃないかと思う。
不安
目に見えない神を信じるということは確かに大変なことだ。不安になると一体どうしたらいいのかと思う。夜中に不安になるとその不安に押しつぶされそうになる。そんな時は本当にどうしようもないなあと思う。不安の種がなくなれば安心できるけれども、そう簡単になくせない、なくなってくれない種が多い。不安を抱えたまま生きていくのは本当に大変ことだ。
ダビデもそんな不安にさいなまれていたのではないかと思う。なんとか不安の種を取り除きたい、安心できる材料を手に入れたい、そんな思いから罪だと分かっていながら人口調査をしたんじゃないのかな。
でもやってはみたものの、というかやったことで改めて自分が間違っていることに気付いたということなんだろうと思う。本当に疫病で7万人が死んだのかどうか分からないが、事実ではないという気がするけれど、余計なことをすることで、周りを巻き込んで迷惑をかけることになるということを言いたいんじゃないかなと思う。
結局は神に祈るしかないと思う。祈れば不安がなくなるなんてことはないかもしれない、そう簡単ではないだろう、けれども不安を抱えたまま神に祈ればいい、神もそれを待っている、今日の箇所はそのことを伝えているんじゃないかな。
不安にさいなまれて眠れない夜、やっぱり祈るしかないと思う。そんな時に祈る事ができる、祈る相手がいるということは幸せなことだと思う。祈りなさい、祈ればいいんだ、神は私たちにそう言われているんじゃないだろうか。
礼拝
今日の聖書を見ながら、礼拝の数もあまり数えちゃいけないのかもしれないと思った。礼拝の人数を数えて、多い時には舞い上がり、少ないときには落ち込んでしまっているけれど、数にとらわれて、数字に踊らされててはいけないような気がしている。数字にとらわれると逆に一人一人が見えなくなってしまうような気もする。数えることの罪とは、人がただの数になってしまって、ひとりひとりを大事にできなくなってしまうことにあるのかもしれないなあ。
やっちまった
ダビデは偉大な王というイメージが強かったけれど、やっちまったというようなことを何回も繰り返していて、そんなに偉大なのかなあと思ってしまう。でもその度に軌道修正をしているようで、それができるということはやっぱり偉大なのかもしれない。
やっちまったらそこで修正する。間違っていたらそこでやり直す。神を見失っていると気付いたら悔い改めて神の方へ向き直る。それこそが大事なのだろうと思う。