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礼拝メッセージより
ひねくれ
最近、いや最近だけじゃないのかもしれないけれど、俺はひねくれているなあと思う。
聖書を読む時も、書かれているそのままを素直に信じるよりも、裏があるんじゃないかとよく思う。伝えられている歴史は表向きの者であって、真実は別なんじゃないかというか、裏があるんじゃないかと邪推することが多い。聖書に中の偉い人達は純真無垢な穢れのない人で、芯のある強い人なのかと思っていたけれど、最近はやっぱり自分と同じような弱さやどろどろした思いを持っていて、みんな悩みながら苦しみながら生きてきたんだろうなという気がしている。ダビデだって、どろどろした思いも持っていて、ただ純粋に神に従ったなんてことはないように思う。やっぱりひねくれてる?
ギブオン人
今日の聖書にギブオン人が登場する。彼らはイスラエル人ではないが、かつてヨシュアの時代に滅ぼさないと契約を結んだ民だった。ヨシュア記9章には、エジプトからカナンへやってきたユダヤ人が、そこにいた民を次々と滅ぼしていた。その噂を聞いたギブオン人は自分達も滅ぼされてはたまらないということで、自分達は地元の民ではなくたまたま余所から来た民だと偽って滅ぼさないという契約を結んだ。三日後には真相が発覚したが主の前に契約を結んだのでその契約は取り消されなかった、というようなことが書かれている。
そういう契約があったのに、サウルはギブオン人を殺害し滅ぼそうとした、その契約違反の罪のせいで三年の飢饉が起こったと書かれている。サムエル記にはここ以外ではそのようなことがあったとは書かれていないけれど、それが主からダビデへの託宣、つまり飢饉の原因はそのせいだということだった。
そこでダビデはその償いのためにどうしたらいいかとギブオン人の要求を聞き、サウルの子孫7人をギブオン人に引き渡すことにした。ダビデはサウルと側女のリツパとの間に産まれた子供二人と、サウルの娘ミカルの生んだ子供5人をギブオン人に引き渡した。ギブオン人は7人を処刑した。子供を処刑されたリツパはその遺骨を鳥や獣から守り続けた。そのことを知ったダビデは7人の骨と、さらにサウルとヨナタンの骨も引き取って、サウルの父キシュの墓に葬った。そうすることで飢饉は収まったという話しだ。
ミカル
ここでミカルとあるが、ミカルには子供が生まれた形跡が見られず、またアドリエルと結婚したのはミカルの姉メラブであり、恐らくメラブの間違いだろう。
リツパ
サウル王の死後、サウル家側の軍の司令官であったアブネルは、サウルの子イシュ・ボシェトを擁立するがやがて自分が実権を握るようになる。そしてついにはサウルの側女と通じるほどになった。その側女がリツパだった。王の側女と通じることで権力を見せつけようとしたんだろう。アブネルはその後ダビデ側に寝返ろうとする。その寝返る条件が、サウルの子ミカルを連れてくるということだった。しかしアブネルはその後ダビデ側の司令官ヨアブに殺されることになる。
リツパは時代に翻弄された女性ということになるのだろう。王の側女であったがその王は殺され、今度は司令官の権力を見せつける道具として利用され、今度はサウル王の罪の償いということで子供を処刑されてしまう。
遺骨を守ったことが讃えられて美談のように書かれているけれど、自分の産んだ子供を強引に連行されて処刑されるなんてことになると、そこから離れることができなくなるのも無理はないという気がする。他に何もできなくなる、何かをする気力も湧いてこないだろうという気がする。
残酷な話しだなあと思う。本当にこんなことがあったんだろうか。親の因果が子に報いすぎだろうと思う。そもそもそんなことで飢饉が起こるわけがないだろうという気もする。
何なんだろう。ある教会のHP(篠崎キリスト教会)にこんなことが書いてあった。
「この物語には二つの意味があるように思える。一つは流された血の報復がされない限り、罪は償われないとの当時の人々の神学であろう。
二つは目しかるべく葬られない骨は流された血と同じく、叫び続けるとの考え方であろう。」
そういう当時の人々の考え方がこの物語の基本にあるということだろう。ということはサウルの罪の結果である飢饉をダビデが清算したということになるんだろうか。そして今日の聖書は、私たちも過去の罪をきちんと清算しないといけませんよという教訓なんだろうか。なんだかあまり納得できない。
いろんな疑問が出てくる。どうして償いの方法をギブオン人に尋ねるんだろうか。ギブオン人が納得すればそれでいいんだろうか。どうしてそれが飢饉と関係するのか。飢饉は神が起こすのであって、それがサウルの罪の所為だとしても、それを償うのは神に対してであって、神が赦したならば飢饉が収まるはずだ。ギブオン人に対して償えば、それでギブオン人と和解するだろうけれど、それは神に対する償いとは別物じゃないのかと思う。
それともギブオン人と和解したことを神がよしとして飢饉が終わったということなんだろうか。
謀略
ある注解者の説を見たのだが、実はそれが一番納得できる。
それはダビデがサウル家に脅威を感じていて、それを合法的に取り除くために、飢饉はサウルの罪のためだという神の託宣があったということにして、サウル家の生き残りを処刑したのではないか、という説だ。そうするとダビデはギブオン人に前もって、金銀の問題ではなくてサウルの子孫を渡してほしいと言わせたということになるんだろうか。
いずれにしてもダビデが飢饉にかこつけてサウル家の脅威を取り除いたというのが一番ありそうな話しのように思える。
学びの分かち合い
どういうこと?というのが正直な気持ちだ。一体何が言いたいのかさっぱり分からない。いつもは無理してでも結論を引っ張り出そうとしていて、なかなか結論が見つからないときは苦しんでいる。今日もだいぶ苦しんでいたけれど、週報の裏のコラム(HPの「牧師のひとりごと」)に書いたように、分からないという気持ちを大事にしようと思ったら急に楽になった。
そういうことで結論はよく分からないけれど、礼拝の後の学びの分かち合いで意見を聞かせて欲しい、誰か答えを教えて欲しいと思う。実はこの分かち合いの時に、あっそうかと気付くことがすごく多いので皆さん是非出席して教えて欲しいと思う。