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礼拝メッセージより
ブルータス お前もか
今日の聖書はダビデが人の妻を寝取ったという話しだけれど、身につまされる話しだなと思う。ダビデ、お前もかという感じがする。少し前に、ちょいエロ親父という言葉が流行ったけれど、自分はちょいもつかない、ただの完全エロ親父だなと思う。男は全員スケベだと言った人がいたけれどその通りなんじゃないかと思う。スケベな人間のことを男と言うんじゃないかと思う程だ。女の人のことはよく分からないけれど。
バト・シェバ
南北イスラエルの王となったダビデは、周りの国々との戦いにも勝利し快進撃を続けていた。10章からアンモン人との戦いが続いていて、イスラエル全軍が出陣してラバという町を包囲したと書かれている。
そんなある日の夕暮れの出来事だった。ダビデはエルサレムに残っていたが、王宮の屋上からたいそう美しい女性が水浴びをしているのを見て誰なのか調べさせた。そうするとイスラエル軍の軍人であるウリヤという人の妻のバト・シェバだった。ダビデはバト・シェバを召し入れて床を共にした。バト・シェバは妊娠したのでダビデにそのことを告げた。
そうするとダビデは彼女の夫であるウリヤを戦場から呼び戻して戦況を尋ねた。そして家に帰って足を洗うがよい、と言い贈り物まで送った。今の内にバト・シェバのところへ帰せば、ウリヤの子供ということになって自分が妊娠させたことも隠し通せると思ったのだろう。ところがウリヤは、自分の同僚は戦場で戦っているのに、自分だけ妻のところに帰って床を共にするなんてできない、と言って帰ろうとしない。
自分の策がうまくいかないことを知ったダビデは、ウリヤを戦場に戻し、司令官にウリヤを戦いの最前線に行かせて戦死させよと命令を出し、そこでウリヤは死ぬ。喪が明けるとダビデはバト・シェバを妻とした。
その後12章では預言者ナタンが主から遣わされて、ダビデは自分の罪に気付かされるということになる。
窮余の策
自分の欲望を満たすために人の妻と知りながら関係を持ってしまった。妊娠したことでその発覚を恐れて策を練った。自分の子供だとばれなければいいと思って夫を呼び戻してみた。けれども失敗し、ならば自分の妻にしてしまえばということで、夫を戦死させた。
美人を見てむらむらしてしまって欲望を抑えられなくなったのが事のはじまりだ。ダビデには既に複数の妻がいて、バト・シェバが人の妻でなければ多分問題はなかったんだろうと思う。しかし人の妻を奪うということは姦淫の罪を犯すことになる。
またこの戦いは、神の箱も戦場に出て行くという聖なる戦いだったようで、兵士はみんな禁欲しないといけないことになっていたそうだ。それでウリヤも王の許しがあったにもかかわらず禁欲を続けている。それなのに最高司令長官であるダビデは王宮に残り姦淫していたということになる。なんとか隠し通そうとしたけれど思うようにいかず、結局はウリヤを死なせることになった。姦淫の罪を隠そうとして殺人まで犯すことになった。言わば自分の面子のため、自分の罪を誤魔化すため、結局人を殺してしまったというわけだ。
ダビデに罪だという意識がどこまであったのかはよく分からないが、隠そうとしたということは、少なくとも今回のことが恥ずかしいこと、知られたくないことだと思っていたということだ。ダビデは自分は王だから何をしたって構わないという気持ちでいたわけではないということになる。
でもそう思いつつ自分の欲望には勝てなかったということなんだろうか。権力を持っていると歯止めが利かないということなのかもしれないけれど。
欲望
結局は自分は自分でもなかなか抗えない欲望を持っているということを知っておくことが大事なんじゃないかと思う。そしてそんな欲望を自分で制御して生きていかねばならないということだろう。神を信じれば、神に従っていればそんな欲望も抑えられる、なんてことはないということだろう。
自分にはそんな邪悪なものはない、清廉潔白だなんて思っていると却って足をすくわれることになるということなんだろうなと思う。
新約聖書のマタイによる福音書の最初にイエス・キリストの家系図が出てくるが、そこには「エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」(1:6)と、母親のことには数人にしか触れないのに、しかもわざわざウリヤの妻によってと、人の妻を奪ったことが分かるように書かれている。
所詮人間は人間なんだということだろう。偉大な立派な敬虔な王として言い伝えられているダビデにもこのような欲望があり、罪を犯してきたということを聖書は伝えている。ダビデと言えでも飽くまでも人間であり、罪も欲望も抱えつつ生きてきたのだということを伝えている。
欲望を抱えながら私たちは生きているんだということ、そのことをしっかり分かった上で生きていけということなんだろうなと思う。しかし私たちは生まれながらにしてそんな欲望を持っている。なくしようもない。信仰によってなくすなんてこともできない。問題はこの欲望をどこでどう使うかということなんだろうと思う。兎に角欲望に振り回されることがないように、そのために人を傷つけるようなことをするな、お前にもそんな欲望があるんだということを心して生きなさい、ということかなと思う。
でも、やっぱり偉そうなことは言える立場じゃないよなあ。