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礼拝メッセージより
逃亡
ダビデはゴリアテを倒したあとも、戦いに出ては勝利していた。サウルはダビデを自分の部隊の隊長に任命したが、ダビデの方が有名になり人気が出て来たことで嫉妬したのだろうか、今度はダビデの命を狙って槍を投げつけたこともあった。あるいは敵であるペリシテ人100人を殺せば自分の娘と結婚させてやると無茶な条件を出して、返り討ちに遭わせようと企んだりしたがいずれも失敗していた。
ダビデはサウルに何度も命を狙われ、遂にサウルの下から逃亡することになった。サウルは三千の兵を率いてダビデを追いかけた。途中サウルが用を足すために入った洞窟にダビデとダビデの兵たちが隠れていて、こっそりサウルの上着の端を切り取ったが、主が油を注がれた方に手をかけようとしたことを後悔し、サウルを襲おうと言っていた兵たちを説得してやめさせた。そして洞窟を出るとサウルに上着の端を見せて、自分には殺すチャンスがあったのに何もしなかった、どうしてあなたは自分の命を狙うのか、なんていう話しをするとサウルは自分が間違っていたと言って帰って行ったという話しだ。
ちなみに26章にも似たような話があって、そこではサウルの陣営が眠っている隙にサウルの枕元まで行き、矢張り部下が殺そうと言ったけれども、ダビデが主が油を注がれた方に手を出すなと止めて、槍と水差しを持ち帰り、後にそれをサウルに見せ和解したというような話しになっている。元々は同じ話しが別々に伝わっていたんだろうと思う。
異常
しかしサウルは何だかあっさりと引き下がったように感じる。兵を三千人も連れて来た割りには変わり身が早すぎる気がする。
そもそもダビデの命を狙うということ自体が普通の神経では有り得ないような気がする。自分の部下であり、戦いに出れば連戦連勝、こんないい部下ないと思う。何でそのダビデの命を狙おうと思ったのだろうか。自分の立場を脅かしていたというのなら分かるけれど、ダビデがそんなことしたようなこともないみたいだし、サウルの勝手な思い込みなんじゃないかと言う気もする。民衆が「サウルは千を討ちダビデは万を討った」と言ったということに激怒したなんてなことも書かれているけれど、それも被害妄想のような気もするし、サウルは正常な神経ではなかったのではないかという気がする。
そして今日のところでも、ダビデが自分に反逆する意志がないことがわかったからということなんだろうけれども、えらくあっさり引き返したり、ダビデの話を聞いて泣いたり、やっぱりサウルは尋常な神経ではないような気がする。
一つ嫌なことがあると殺してやると言いだし、一つ嬉しいことがあると泣いて喜ぶというような、いろんな状況を総合的に判断し冷静に行動するというようなことができないような状態だったのではないかという気がする。
復讐するは我にあり
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」(ローマの信徒への手紙12:19-20)という言葉がある。
復讐は神がするんだから神に任せて自分は手を出すなということだろうか。復讐するよりもむしろ親切にしなさい、そうすることが燃える炭火を相手の頭に積むことになる、つまり相手を傷つけるよりも親切にすることが一番の復讐になるというようなことだと思う。
油注がれた者
ダビデもそんな思いからサウルに手を出さなかったんだろうか。神から王として選ばれたということのしるしとしてサウルは油を注がれた、だからその神が選んだ者に手を出さないというのは立派な信仰心から出た立派な行動なんだろうか。
確かに神を畏れる信仰心から出た行動ではあるんだろうけれども、ただそれだけではないと思う。サウルはおかしな王だったけれどもダビデは立派な信仰心に満ちた王である、というようなイメージをずっと持っていた。でも立派なだけの人間なんていないよなと思う。僕がひねくれているだけかもしれないけれど、ダビデはただ立派な信仰心だけからサウルに手を出さなかったわけではないように思う。ずっと自分の命を狙っている相手をそうそう簡単に赦せるのかわけないだろうと思うのは、僕の信仰心のなさのせいなんだろうか。
サウルに手を出さないことで、自分も守ろうという気持ちもあったんじゃないかと思う。
主が油注がれた者に手を出さないということが繰り返し出てくる。そんなことは主が許さないとも言っている。でもダビデ自身も既にサムエルから油注がれたと書かれている。そうすると油注がれた者に手を出すなということは、サウルに手を出すなということと同時に、油注がれてやがて王となる自分にも手を出すなということになる。
そうするとダビデがサウルに手を出さなかったのは、神が選んだ者に手を出さないという信仰心だけではなくて、ゆくゆくは王となる自分を守ることでもあり、王に手を下すことによって起こると予想される反乱を避けるためでもあったんじゃないかと思う。
つまりダビデはそういういろんなことを総合的に判断してサウルに復讐しないという選択をしたのではないかと思う。
サウロはダビデに突然槍を投げつけたり殺せと命令したり、と思うと今日の所ではダビデの話しに泣いてみたり、なんだかその時その時の感情に振り回されて行動しているように見える。
一方ダビデは周りの状況を見て冷静に判断して行動しているように見える。二人の違いはそこにあったんじゃないかと思う。
復讐しない
言われもない疑いをかけられ命まで狙う相手を赦すなんてことはなかなかできない。やられたらやり返して当然だと思う。やり返さないと気が済まないという気持ちになる。
冷静になれ、と今日の聖書は言っているような気がする。お前は復讐しなくていい、それは俺の仕事だ、と新約聖書を通して神は告げている。
お前の怒りを私はよく分かっている、けれどもお前は怒りに振り回されてはいけない、怒りの奴隷になってはいけない、だから冷静になってほしい、怒りは俺に任せろ、お前には平和に過ごしてほしい、神は私たちにそう言われているんじゃないだろうか。