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礼拝メッセージより
不条理
世の中は不条理で満ちている。正しい者が馬鹿を見ることも多々ある。神がいるならどうしてこんなことを許すのかと思うこともよくある。おかしいじゃないかと思う。そんなことがあってはいけないんじゃないかと思う。しかし現実には世の中は単純ではない。悪人が栄えて長生きしたり、善人が苦しみ短命であったりするような、不条理としか思えないようなことがいっぱいだ。
ダビデもいわば不条理の憂き目にあっている。サウルの次の王となるように選ばれたけれども、それによってサウル王から憎まれ命を狙われることになってしまう。ダビデが次の王を狙っていたということならばそうなっても仕方ないのかもしれないが、ただ神に選ばれてしまったがためにそうなってしまったようなものだ。全くの不条理だ。
一目惚れ?
ゴリアテを倒したダビデを見てイスラエルの最初の王であるサウル王は、「お前は誰の息子か」と尋ね、ダビデが、「王様の僕、ベツレヘムのエッサイの息子です」と答えた、と17章の最後に書かれている。それに続く18章の1節では、「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」と書かれている。
ヨナタンはサウル王の息子であるが、まるでダビデに一目惚れしたかのような言い方だ。サムエル記下1章にダビデがサウルとヨナタンを悼む歌というのがあるが、26節には「あなたを思ってわたしは悲しむ/兄弟ヨナタンよ、まことの喜び/女の愛にまさる驚くべきあなたの愛を」とある。ただ友情を超えるような特別な感情があるようだ。
嫉妬
ダビデはその後の戦いでも勝利を収め、周りからの評判もよくなってくる。そうするとサウル王はダビデを妬むようになる。サウル王に関して、悪霊が彼をさいなむようになるとか、悪霊が激しく降るとか書かれている。精神的な病気か何かがあると、当時は神からの悪霊の仕業だと考えられていたそうで、きっとサウルもそんな病気か障害があったのだろうと思う。そのために戦いに勝ち人気も出て来たダビデが、やがて自分たちを亡き者として王の地位を狙っているに違いないという被害妄想にとらわれてしまったのではないかと思う。そのためにサウル王はだんだんとダビデを恐れるようになり、ダビデの命を狙うようになる。
サウルは長女をダビデの妻として与えるから自分の戦士となって戦ってくれと言い、敵であるペリシテ人によって戦死させようとする。ところがダビデ自身がそんな身分ではないと言い、サウル王もその時は長女を別の人と結婚させようとしてダビデに断られ、今度は別の娘ミカルがダビデを愛していると知ると結婚させて、娘を利用してダビデを殺そうとしたりした。
その後サウルはヨナタンと家臣にダビデ殺害を命じたりもしたが、諫めるヨナタンに槍を投げたりしたこともあった。ダビデはヨナタンと結託してサウルの下から逃亡する。
ダビデとヨナタンの別れは何だか恋人の別れみたいな感じもするけど、それほど二人の関係は親密だったということなんだろう。
逃亡
その後が今日の聖書箇所だ。
ダビデはノブの祭司アヒメレクのところへ行った。アヒメレクはダビデが一人だけであることを訝しむけれど、ダビデは王の密かな命令だと言ったり、従者なんか誰もいないのに従者たちも女を遠ざけているからと言って祭司だけが食べられる備えのパンをうまいこと分けて貰ったりしている。逃亡生活で相当腹が減っていたのだろう。
11節からは今度はガトの王アキシュのもとに行く。ガトと言うのは死海のすぐ東側にあるようだが、そこにもダビデの噂は届いているようで、ダビデは気が狂った振りをしたと書かれている。捕らえられてサウルの元へ送り返されないように、ダビデ本人じゃなくたまたま似ているおかしな人間を装ったということなんだろう。当時はそういう人には関わるなと言われていたそうで、アキシュもダビデを追い払ったようだ。
綺麗事じゃない
ダビデはその時その時でうまく嘘をついて、おかしな振りをして逃げ延びた。神に選ばれて王となるものならば、こそこそ逃げてないで、もっと堂々としてたらいいんじゃないかと思わなくもない。神がついてるなら嘘をつくようなことしなくても守ってくれるんじゃないかという気もしなくもない。
しかし世の中そんな綺麗事ばかりではやってられないというのもまた事実だろうと思う。
聖書教育の資料に神学校の先生だった小林先生の説教の抜粋が載っていた。
『虐めに遭うこどもが「神さま、どうして私にこのようなことが起こるのですか。私は何も悪いことをしないのに、あの人たちは、寄ってたかって私をいじめます。苦しくて、悔しくて仕方がありません。どうぞ彼らを罰してください。彼らを裁いてください。彼らのいじめに報復してください。」と密かに祈ったとしたら、その子にそんな祈りはやめなさいと言うべきか。私は「それでこそあなたは教会に来ている子どもですと言うでしょう。・・・信仰があるから嘆くのです。嘆くことのより信仰はかなり確かなものとなります。・・・教会は報復の祈りしかできない人々とも共にあることを重んじ、大切にしたいと思います。なぜならば、神はそのような嘆きを聞かれるからです。』
私は神を信じても、良い人間になったり悪いこともしなくなったなんてことはない。悩みも不安も恐れもなくなり、強い人間に生まれ変わってもいない。隣人を愛する優しい人間に生まれ変わったわけでもてない。
未だに誰にも見せられないどろどろした思いを持ったままだ。憎しみや怨みや復讐心、そんな邪悪な思いを内に秘めて生きている。神を信じているつもりだが、そんな汚い思いはなくなっていない。誰もがそうなのではないかと思う。
しかしそんな邪悪に満ちた私たちの心の中に神はいてくれているのだと思う。イエスはただ綺麗事の世界にいるのではなく、弱さや嘆き、間違いや不信仰、そんなものをいっぱい抱えて何とか生きている、そんな私たちと共にいてくれているのだと思う。罪を犯してしまう、人を憎んでしまう、人を傷つけてしまう、そしてそういう自分を自分で裁き傷つけてしまう、そんな私たちのどろどろした心の真ん中にいてくれているのだ。
綺麗事じゃない世界を何とか生きている私たちの、綺麗事では済まされないそんな心の奥底に神はいてくれているのだ。