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礼拝メッセージより
サウル
外国の脅威にさらされていたイスラエルの人たちは、外国と同じように王を求めた。そこで神は当時の祭司であり預言者でもあるサムエルに王を立てるようにと告げた。
そこで選ばれたのがサウルだった。サウルについて9章2節では、「美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」と書かれている。そしてサウルが王として選ばれる時のことが10章に出てくるが、23節には「人々は走って行き、そこから彼を連れて来た。サウルが民の真ん中に立つと、民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」と書かれている。
実は一番背の高い者が王となるということになっていたのではないかという話しもあるらしいが、とにかくサウルは飛び抜けて背が高かったようだ。
そうしてサウルから油を注がれてサウルだったが、年を経るにつれて王としての自信が出て来たのか、最初はまじめに聞いていたサムエルの言葉を、だんだんといい加減にしか聞かなくなってくる。
サウルはサムエルを王としたことを悔いて、サムエルに代わる王を捜し出した。それがダビデだった。そのダビデが少年の時にペリシテのゴリアトと戦ったという武勇伝が今日の箇所だ。
ゴリアト
ゴリアトの説明が17:1以下に書かれている。身長が6アンマ半、約280cm、体重は書いてないが、頭に青銅の兜をかぶり、身には青銅5千シェケル、57kgの重さのあるうろことじの鎧を着て、足には青銅のすね当てを着け、肩に青銅の投げ槍を背負っていて、槍の柄は機織りの巻き棒のように太く、穂先は鉄600シェケル、約7kgもあった、と書かれている。
そのゴリアトがイスラエル軍に向かって、1対1で戦う奴は出てこい、と40日間挑発したけれども、みんな恐れをなして出ていかなかった。
そこに戦っている兄たちに届け物を持ってきたダビデは、あのペリシテ人を倒したら何かしてもらえるのですか、生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は一体何ものですか、と言ったそうな。
そのことを伝え聞いたサウロはダビデを呼び出した。ダビデはサウルに、わたしは獅子や熊が羊を奪いに来てもやっつけてきた、神も守ってくれているから大丈夫だ、と告げる。
ダビデは最初、サウルの言うままに兜や鎧を着て剣を持ったが、歩くこともできなかったのでそれを脱ぎ、結局は自分の杖と石投げ紐と石だけを持ちゴリアトに向かって行った。そこからが今日の聖書だ。
武勇伝
実はサムエル記下21章19節に「ゴブで、またペリシテ人との戦いがあったとき、ベツレヘム出身のヤアレ・オルギムの子エルハナンが、ガト人ゴリアトを打ち殺した。ゴリアトの槍の柄は機織りの巻き棒ほどもあった。」とある。ダビデとゴリアトの話しはこのサムエル記下の話しを借用したものだろうと言われているようだ。
立派なダビデ王は少年のころから活躍したということを伝えようとしているということでもあるのだろう。
ダビデは「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」と言っている。
王を立てるということを民が求めたために神がしぶしぶ認めたわけれだけれど、しかし王を立てて強い武力を持つことで自分たちの国が守られると思い、神を忘れ、神の言葉を聞かなくなてしまうことに対する反省がこのダビデの言葉に託されているのではないかと思う。
不安
自分自身が力を持つことで相手を倒し未来を切り開こうとすることで、実はその分神のことを忘れ神に従うということを忘れてしまうことになるということを言いたいのだろうと思う。
ダビデは武具を脱いでいつもの格好で戦ったという話しは面白いなと思う。私たちはいろいろと鎧を着けようとすることが多いような気がする。今のままの自分で大丈夫だと思っている時には余計なものはつける必要がない。今のままでは駄目なのだ、と思うときにはいろんな鎧を着けようとする。
もっと力をつけないと、もっと資格をもたないと、もっと学力を、もっと財力を、もっと人脈を、もっともっとと思う。それは今のままの自分では駄目なのだという不安の裏返しでもあると思う。
旅行に行くときに、もし寒くなったら、暑くなったら、汗をいっぱいかいたら、服を汚してしまったら、歯ブラシがなかったら、寝間着がなかったら、なんて心配をいっぱいしているとそれだけに持つが増えてくる。タオルを何枚も持って行くという人もいた。でも大丈夫だ、何とかなると思えれば少ない荷物で済む。心配の量と荷物の量は比例するような気がする。
人生も同じようなものかもしれない。将来何があるか分からないという不安はきっと誰もが持っているだろう。大体が思うようにいかないのが人生だ。何があっても大丈夫なように全部自分の力で準備しようと思うとそれは大変なことになるだろう。会社が倒産しても、災害が起こっても、病気になっても大丈夫なように万全の準備をするなんてのはきっと無理だろう。
そしていつか死を迎えるわけだけれど、それに対する準備は何をすればいいんだろうか。
敵がいると不安からいっぱい鎧をつける。敵がはっきりしているときはどれほどの鎧をつければいいかの検討もつけやすい。しかし人生を襲ってくる敵は得体の知れないものだ。一体どれほどの鎧をつけておけば安心できるのだろうか。もし自分ひとりで、自分だけの力で生きようとすると動けないほどの鎧を着けないといけないのだろうと思う。
神は、そんなに心配するな、俺に任せんさいと言われているのだと思う。俺がついているから、いつも一緒にいるんだからいらん心配をせんでいい、そう言われている。
自分のことを考えると不安と心配ばかりの人生だなと思う。いつも足りていない、まだまだ駄目だと思っている。これで大丈夫となかなか思えない。礼拝のメッセージの準備にしても、これで出来た大丈夫と思えないので、いつも間際まで終われない。
自分で自分のことを駄目なんだ、駄目なんだと思ってしまうことが多い。あれもこれもまだまだ足りないと思う。いっぱい鎧をつけないといけないように思ってしまう。
しかし鎧なんかつけなくてもいい、神がついているのだから大丈夫なのだ、鎧をつけると余計に動けなくなってしまうぞ、今日の聖書はそのことを私たちに伝えているのではないだろうか。
神を信じればダビデのように勝てるとは限らない。願いどおりにならないことの方が多いだろう。
しかし神は見えないところで私たちを支えてくれている。不安を心配に打ち震える私たちを大事に、大切に思ってくれている。そして私たちの苦しみや悲しみや嘆きや落胆をわかってくれている。そうやって神は私たちを支えてくれている。
だから見えない神を、見えない神の支えをしっかりとみつめ、この神に聞いていきたいと思う。