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礼拝メッセージより
サウロ
紀元前1000年位のことだそうだ。最後の士師とも言われるサムエルは祭司としてイスラエルを導いていた。当時イスラエルは周りの国々との軋轢があり、諍いもあった。サムエルの息子たちが後を継ぐ立場にいたらしいけれども、息子たちは不正をして賄賂を取って裁きを曲げた、なんて書かれている。そんなこともあって、イスラエルの民は自分達の国も周りの国と同じように王を立ててることを臨んだ。王の下で強い国になりたかったんだろうなと思う。
サムエルは王制になることのデメリットを告げたりもしたけれど、結局は神がそれを認めて王を選ぶことになった。そこで最初に選ばれたのがサウルだった。サムエル記には、サムエルがサウルに会ったときにこの人だと主が告げたと書かれていたり、くじを引いたらサウルになったと書かれていたり、アンモン人との戦いで活躍したことで王に立てられたと書かれていたりする。いろんな伝承があるみたいだ。
面白いことに9:2には「彼には名をサウルという息子があった。美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった。」と書かれている。また10:23にも「サウルが民の真ん中に立つと、民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」と書かれている。どうも昔は背が高い者が優れているという考えがあったようで、実は一番背が高いサウロが選ばれたのかもしれない。
しかしサウロは、サムエルの到着を待てないで勝手に献げ物をささげたり、滅ぼし尽くせと言われていた主の命令に背いて上等なものを残したりしたために、主から見放され王の座を降ろされることになった。
ダビデ
そこでサムエルは新たな王を見つけて油を注ぎに行くことになったというのが今日の箇所だ。主はサムエルをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう、その息子の中に王となるものを見いだした、なんて言われて出かけていった。サムエルは上の兄弟がふさわしいと思ったけれどそうではなく、羊の番をさせられて食事の席に来ていなかった末っ子のダビデが次の王として主に選ばれた者だった、という話しだ。
心によって
7節では「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」と書かれている。そのくせ12節で「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」と書いてあるのはどうなんだと思う。サムエル記を書いた人自身はやっぱりダビデが格好いい王であったとどうしても言いたかったのかな。
心によって何を見るんだろうか。やっぱり心を見るんだろうな。しかし心を見られるなんてちょっと恐ろしい気もする。隠している心の内を見られるとまずいという気持ちがある。
少し前のラジオで、人はいつも演技しているというようなことを言っていた。面接なんかの時はいい人間の振りをするというような話しだったと思うけれど、でも結局は特別な時だけではなくて、いつも誰に対しても見せて良いと思うところだけを見せようとしている、そんな演技というか振りをしているというような話しをしていて本当にそうだなと思った。
自分が望むような振りがどれほど出来ているか、隠したいことをどれほど隠せているかは分からないけれど、決して誰にも見せたくない、知られなくない、あるいは気づかれたくないものを誰もが持っているじゃないかと思う。そういうものも心で見られると見られるんだろうなと思う。見られてしまうという怖さもあるけれど、でも全部知られているということは隠す必要もないわけで安心できることでもあると思う。
逆に私たちは相手に見せたくても見せられないもの、気付いて欲しいのに気付かせられないもの、伝えたいのに伝えられないものもいっぱい抱えているのではないか。神はそういうものも心によってしっかりと見てくれているということだ。
見られている
そんなことを思うと見られているということはとても嬉しいことなんだと思えてきた。神は心によって、私たちの心の隅々まで、良いことも悪いことも、楽しい思いも嬉しい思いも、そして悲しい思いも苦しい思いも、何もかも見てくれているということだ。
私たちは世間からスポットライトを受けるようなことはあまりないだろう。誰からも注目されるなんてこともないだろう。しかし私たちの神はそんな私たちひとりひとりを見ている、しっかり見ている、心によってしっかりと見ているということだ。