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礼拝メッセージより
すぐに来る?
イエスは、私はすぐに来る、と言う。
ローマ帝国の迫害に直面している教会にあてた手紙である黙示録。そしてこれは礼拝の中で読まれていたそうだが、そんな教会に対してのイエスの言葉が、わたしはすぐに来る、という言葉なのだ。この苦しみはいったいいつまで続くのか、いつまで耐えればいいのかという思いを誰もが持っていた時期だっただろう。早く終わってほしい、少しでも早く、一日でも早く終わって欲しい、そんな思いで一日一日を過ごしていたのだろう。それに対してわたしはすぐに来る、とイエスはいう。しかも報いを携えてくる、と言う。
αでありωである者
ここでは天使が話していることになっていて、ヨハネが拝もうとしたところ諫められたなんてことが書いてある。かと思うといつの間にかイエスにすり替わってしまっていて、ちょっとどうなのよと思う。
それは兎に角、イエスは自分のことを、わたしはアルファでありオメガであると言う。最初の者にして、最後の者、初めであり終わりである、というのだ。この世の初めからずっといてそして終わりまでいるということ、あるいはまた、初めから終わりまですべてを支配しているということのようだ。
そんなイエスが、すべてを支配しておられるイエスが、神であるイエスが、報いを持ってすぐに来るというのだ。
衣を洗う
14節に「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清めるものは幸いである」とある。7:14に「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」とあるように、「自分の衣を洗い清める」とは、小羊の血で洗い清めるということになる。つまりイエスの血によって自分の汚れを洗い清める、自分の罪を赦される者となるということ、イエスの十字架の血によって自分が赦されたのだということを受け入れた者となる、ということだ。
そして自分の衣を洗い清める者は命の木に対する権威を与えられ、門を通って都に入れるというのだ。その命の木は22章の最初のところによると、天の神の都にあり、神と小羊の玉座から流れ出る命の水の川の両岸にある木である。つまりイエスの十字架の血によって自分の衣を洗い清める者は神の都に門から堂々と入ることが出来るというのだ。神の都のれっきとした住人となるということだ。やがて神の都に門から入っていくことになるというのだ。
渇き
またイエスは、渇いている者は来るがよい、ともいわれる。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい、とも。命の水はただで飲ませてもらえるというのだ。
ヨハネによる福音書7:37-38でイエスが言った、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」を彷彿とさせる。
すぐに来る
私たちの現実は様々な苦しみがある。いろんな苦しみに直面している。しかしそんな時でもイエスは私たちをじっと見つめている。そんな時にもイエスの手の中にあるということだ。見えない神の手は私たちの周りから私たちを包み込んでいるということだ。
「神の勝利は我々に依存していない。神は、我々が神や自分自身を愛していないときも、我々を愛する。神は、我々が神や自分自身を赦していない時も、我々を赦す。神は、我々が神や自分自身を信じていない時も、我々を信じる。神は、我々が救いを必要としていることや救われる価値があることを信じて居ない時も、我々を救う。」(現代聖書注解「ヨハネの黙示録」)
確かに神は見えない、信じられない時もある、分からないときもある、しかしそんな時でも神は私たちを支えてくれているということだ。
私たちは苦しみの大きさに、大変さに圧倒されてしまう。その苦しみに飲み込まれてしまいそうになり、その苦しみを前にして自分の小ささや無力さを嘆くしかないように思えてしまう。
しかしそんな者に向かってイエスは語りかけている。私はすぐに来る。私はお前を見捨てはしない。じっと見つめている。
すぐに?
しかしその割りにはイエスはなかなか来ない。終末は一体いつ来るのか。そもそもイエスはその時まで遠くにいるのか。いつも共にいるのではなかったのか。そんなことを思った。
勿論、すぐに来ると思うことで、苦しみに耐えることができるということはあるだろう。あと少しの辛抱と思えれば結構耐えられる。しかしそれでずっとずっと耐えるというのは難しい。
神のすぐと人間のすぐは違うのかもしれないけれど、当時の教会の人たちはこの言葉で希望を持てたのだろうか。そんな冷静に考えられるのも今だからなんだろうか。苦しみにあえいでいる人達にとっては、これは大きな大きな希望だったのかもしれないとは思うけれど。
希望を全く持てない状況の中に、ほのかに光った希望だったのかもしれない。だからそして当時の人達をその希望をしっかりと持ち続けたのかなと思う。
苦しみのために、苦しみに邪魔されてなかなか光が見えない時もある、でも光は確かにある、私たちにとっての光は確かにあるんだ、黙示録はそのことを当時の人達に告げていたのだろう。そしてその光は今の私たちをも照らしている、確かな光なんだ、黙示録はそう告げているのだと思う。