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礼拝メッセージより
終焉の前に
苦しみの3年半が終わると、次の千年が始まる。一人の天使が諸国の民を惑わす「悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜」を取り押さえ、底なしの淵に投げ込み、鍵をかけて封印をする。
この竜によって民は迫害を受け、苦しみを受けたというのに、なんともあっけない捕まり方だ。天使に対しては、それはつまり神に対してでもあるけれども、何とも無力なものでしかない。
殉教者
竜が閉じこめられている千年の間、イエスの証と神の言葉のために殺された者たちは、キリストと共に統治するという。殉教者だけがこの時に生き返ってキリストと共に千年の間統治するという。3年半の間、かの竜が獣を使って最後のあがきによって人々を苦しめるが、その後の千年間は底なしの淵に閉じこめられるというのだ。しかし千年の間のことは20:4-5にしかない。3年半の間のことがらは何章もあったのに。
千年の後
しかし千年経つとサタンは牢から解放されるという。そしてゴグとマゴグを惑わそうとして出ていく、というのだ。このゴグとマゴグはエゼキエル書38-39章に出てくる。マゴグは黒海とカスピ海の間にある土地のことでゴグはそこの王の名前だそうだが、そこには神が終わりの日にゴグを究極的な悪の権化として立ち上がらせ、その後神の主権と栄光を示すために彼を滅ぼすと書かれている。つまり終末の戦いで滅ぼされるべき神の民の敵を表している。
千年の後にサタンは地上にいる諸国の民とゴグとマゴグを集め、最後の戦いを挑んでくると言う。しかしこれはもう戦いと言うほどのものでもない。彼らは聖なる者たちの陣営と愛された都とを囲むが、そこで天から火が下ってきて彼らを焼きつくす。そして彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれる。
天からの火によって彼らはやっつけられてしまう、つまり神の力によって滅ぼされてしまうということだ。千年待たされたわりにはあっけない敗北だなあという気がする。
がしかし、勝負はもうとっくについている。神の勝利はもうずっと前に決定していたということのようだ。イエスの十字架における死によって神は決定的な勝利を収めている、だから悪魔の負けは決まっていることがらであるということのようだ。最後の悪あがきをすることは許されているにすぎないということだ。
審判
最後の裁きでは、天も地も逃げてしまうという。その時には古い天も地もすべてなくなって、全く新しい世界に変わるということなんだろう。そして命の書やいくつかの書が開かれ、死者たちはそれぞれの行いに応じて裁かれる。海も死も隠府も死者を出した、なんて書いている。そして死も隠府も火の池に投げ込まれる。
火の池
最後には死も隠府も火の池に投げ込まれるという。私たちはいつかは死ぬことになっている。しかしその死も最後には神によって火の池に投げ込まれるというのだ。私たちは最後に死に捕らえられてしまうというわけではないのだ。その死をも神は滅ぼし、死からも私たちを解放するというのだ。
裁きなんて聞くと恐ろしくてゾッとしてしまう。しかし神の裁きは悪を徹底的に滅ぼす、ただ悪を全て火の池に投げ込むという裁きなのだ。
終焉
当時の教会の人たちはローマの皇帝を礼拝しないことで裁かれるようなこともあったらしい。しかし最後の最後には神が悪を裁き完全に取り除くのだということをこの黙示録から教えられているということだろう。
自分たちが直面している苦しみも、それは神が敗北したからでもなく、神が無力だからでもなく、ただ神が悪魔に最後の悪あがきをすることをゆるしているからにすぎないということだ。
もうすでに神は勝利しているのだ。屠られたような小羊によって、つまりイエスの十字架の死によって神はもう勝利しているのだ。すでに勝利し、やがて全ての悪を滅ぼす、その神を見上げて信じていこう、今の苦しみは滅びへと続く苦しみではなく、やがて栄光へとつながるその前触れとしての苦しみである、だから苦しみの中にあっても、希望を持ってこの神を信じて従っていこう、そうヨハネは教会の人たちを励ましているのだろう。
サタンの終焉は近づいている。あらゆる悪の終焉ももうすぐだ、だからこの苦しみをどうにか耐え忍んで欲しい、ヨハネはそう言っているような気がする。