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礼拝メッセージより
畏れ
5節に、「神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ」という声がしたと書かれている。神の僕とは神を畏れる者でもあるということだろう。
しかしこの畏れというのはどういうことなんだろう。この畏れとは、恐怖の恐れとか怖れとは違う字になっている。字が違うことは見れば分かるけれど、どう違うんだろうか。恐怖の分かるけれど、こっちの畏れはなんだかよく分からないなあ。
そうしたらネットで誰かの説教の中にこんなことが書いてあった。
『神様を畏れる必要はない、と多くの人は考えています。彼らにとって神様は自分と対等な立場にある友達のような存在であり、友達をこわがる必要はないからです。しかし聖書はそれとはちがうことを教えています。神様はあまりにも大きく、私たち人間はあまりにも小さいため、私たちは神様の友達などにはなれません。神様は非常に偉大なお方であり、私たちとはまったく比較にならないので、神様を畏れるのは正しい姿勢なのです。しかしこの「畏れ」は、神様から逃げ出したり神様の御許に行く勇気をなくしたりするという意味ではありません。「神様を畏れる」というのは、神様を敬う心の深さのゆえに、私たちが自分と対等の友達に接するときとはまったくちがう態度を神様に対しては取るようになるということです。』
つまり畏れるというのは、神は私たちよりも遥かに大きいから、自分に比べるとあまりに大きすぎるから人間はたじろぐしかないという感じなのかなと思った。そうすると少しは分かるような気がする。
でもヨハネによる福音書15:9-15にはこんなイエスの言葉が書かれている。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」
さっきの説教では「私たちは神さまの友達などにはなれません」と書いてあったけれど、でもイエス自身は「わたしの命じることを行うならば友だ」と言っている。どういうことなんだろうか。畏れるべき偉大な神が友となってくれたということなんだろうか。あまりにも大きすぎて私たちがとても把握できない、ただ畏れるしかない、そんな神なのに、それなのに私たちの友となってくれた、友となってくれているということなんだろう。
聖霊降臨日
今日はペンテコステとなる。ペンテコステというのはギリシャ語で50番目という意味の言葉だそうだ。過越の日から50日目に刈り入れの祭りをしていて、離散したユダヤ人たちがエルサレムに巡礼に来ていたそうだ。使徒言行録によると、十字架の時にイエスを見捨てて逃げた弟子たちが、聖霊に満たされてイエスの事をキリストだと語り始めたと書かれている。かつてイエスの約束された助け主である聖霊が降りてきたということで聖霊降臨日という言い方をしている。
聖霊
使徒言行録だと聖霊が降りてくると不思議な現象が起こり弟子たちが外国語を語り出したなんてことが書かれているが、コリントの信徒への手紙12章でパウロは、聖霊によらなければ誰も「イエスは主である」とは言えない、と書いていて、さらに賜物がこの霊が与えるもので、ある人には知恵の言葉、ある人には知識の言葉、ある人には信仰、ある人には病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられる、なんて書いてある。
パウロが言うには、聖霊とは私たちに信仰や言葉、そして様々な神からの力を与えるものということのようだ。聖霊とは私たちの心や魂を揺り動かすというか、心や魂に働きかける力なんだろうと思う。
イエスが私たちの友となってくれている、イエスが私たちを大事に思ってくれている、大切だと言ってくれている、いつも一緒にいてくれている、そのことを信じられるのも、そのことをうれしく思うのも、それは聖霊の働きがあるから、聖霊という神の力が私たちに働きかけてくれているからということだ。
婚宴
天上でヨハネは天使の「小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」という声を聞いた。
ちょっと余談だけれど、「婚宴」なんて日常で聞いたことがない。結婚披露宴の短縮形かなと思ってネットで検索すると、豪華な披露宴会場や豪華な料理がの写真いっぱい出て来て、見た限り全部中国語みたいだった。婚宴って中国語なんじゃないか、と翻訳に文句を言いたい気持ちだ。
それはそうとして、神に従う者たちは天上では小羊の婚宴に招かれていると言われているようだ。
地上では迫害に遭って苦しい思いをしている、この苦しみはいったいいつまで続くのかと思っている、そんな教会の人たちに対して、ヨハネは見えないところで私たちは神から宴会に招かれている、結婚披露宴に招かれているんだと言っているようだ。
そんなのはただの夢物語、ただの幻想、下手な慰めでしかないと言われれば返す言葉もない。
しかしこの世は見えるものだけで動いているのではなく、見えないところで神が支配していると信じることで私たちは希望を持つことが出来る。私たちは神の力によって、聖霊の働きによって、そう信じることが出来るようにしてもらっている。
真っ暗闇の中で見えない光を見えるようにしてくれる、それが聖霊の働きなのだと思う。私たちはそんな神の力によって絶望の中でも希望を持つことができる。どんな時でも、どこにいてもイエスが一緒にいることを信じることができる。
祈り
この頃は祈ってもその通りにならないし、祈っても聞かれないじゃないかと思っていた。祈りは神を変えることではなく自分を変えることだと言われるとおり、祈りとは自分の都合で神を操作することではなく、自分の見る目を変えることかなと思っていた。
それは間違ってはいないと思うけれど、祈りが聞かれないと思うのはただ自分の思い描いた通りにならないからそう思っているだけなんじゃないかと思うようになってきた。
子どもがあそいい学校に合格して、いい会社に就職して、いい人と結婚するようになんて祈るけれど、そういうのはなかなか叶わないことが多い。そして自分の祈りは聞かれない、どうせ祈りなんて聞かれないんだと思ってしまう。
でも最近は、神さまは違う仕方で子どもを守ってくれて、私たちが思いもしないような方法でというか、思い浮かびもしなかった道で導いてくれているのではないかと思うようになってきた。神が祈りを聞いていないのではなく、一番いい方法で、一番いい道に導いてくれているということではないかと思うようになってきた。ちょっと信仰心が芽生えてきたのかも。
これも聖霊の働きかもしれないと思う。信じられるというんは嬉しいことであり、安心できることだ。私たちが希望と喜びを持って生きるために、そのために信じられるようにしてくれる、それが聖霊の働きなのだろうと思う。
信じられるというのはありがたいことだと思う。