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礼拝メッセージより
いつまで?
地震が続いている。地元の人は一体いつになったら終わるのかと思っているだろうと思う。終わりが見えない、終わりがわからない状態が続くというのは大変なことだ。終わりが分かっていれば、結構な辛さにも耐えられる。しかしいつ終わるともしれないとなると、大したことのない辛さでも耐えられない。
当時の教会はユダヤ教から邪教とされ、そのため皇帝崇拝を強要され、信仰を守ることが命の危険へとつながるような苦しい状態だった。まさにいつ終わるとも知れない苦しみの最中にいた。
玉座
黙示録5章はヨハネが天上の出来事を見せられている中の状況である。
玉座に座っているのは神。そして神の持っている巻物を開くことで終末の出来事が起こる、つまり苦しみの時が終わり新しい時がやってくるということを表しているようだ。終末は神の裁きの時、神がすべてを整える時であり、それは神に従う者にとっては祝福の時でもある。
この巻物の封印が解かれることでその終末がやってくるというわけだ。ところがヨハネにはその封印を解いて、巻物を開くのにふさわしい者がどこにも見つけられなかった。封印を解くことの出来る者がどこにもいないということは終末の出来事が起こらない、終末が来ない、今の教会の苦しみも終わらない、ということになる。そこでヨハネは激しく泣いていた。
獅子
するとそこにいる長老がヨハネに声をかけた。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる」。
ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえ、ひこばえとは切り株から出る新しい芽のことだそうだが、そう言われる方が封印を開くことが出来るという。ユダ族から出た獅子もダビデのひこばえも、救い主、キリストを指す言葉であるそうだ。つまりキリストがその封印を解き終末をやってこさせることができる、今の苦しみから解放してくれる時を来させることができるというのだ。
小羊
しかしヨハネが天上で見たキリストは屠られたような小羊であったというのだ。勝利を得た獅子と言われる方の有り様は、傷つき血を流している屠られたような小羊であるというのだ。
私たちの目には、この世において人の言いなりになり、いいようにあしらわれ、十字架につけられ殺された何とも無力なキリストである。しかしそのキリストが終末までも支配している方、勝利の獅子であるというのだ。
この小羊には7つの角と7つの目があったという。7とは黙示録では完全を意味する数字で、7つの目が全地に使わされている神の霊であるということは、神の力と支配、キリストの救いが全世界に及んでいるということを意味しているらしい。
黙示録は映像的な表現が多くて、映画にしたらいいように思ってきたけれど、どうも無理があるようだ。七つの角と七つの目がどういうふうに付いているのかなんて考えるけれど、それよりも七つの意味していること、つまり全世界を見つめているという風に考えた方がいいようだ。
そもそも巻物には表にも裏にも文字があるとあるけれど、巻いているんだから裏に文字があっても見えないはずだ。またこの後には長老たちが竪琴と金の鉢を持っているとあるが、金の鉢も持っていたら竪琴は弾けない。
細かいことまで映像的に考えるとおかしなことになるような気がしてきた。それよりも何を数字にしても意味しているのかということを考えた方がいいと思う。
讃美
小羊が巻物を受け取ったとき、天上では讃美の歌が聞こえてきた。
讃美は四つの生き物と24人の長老たちから、やがてそのまわりにいるおびただしい数の天使たちへと広がっていった。
讃美の内容は、キリストこそが終末の主であるということ、キリストはご自分の血によって人々を贖い、彼らを神に仕える者としたということ。そして、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、賛美を受けるにふさわしい方だ、ということだ。
しかし讃美とは一体なんなのか。讃美歌は毎週歌っているがそれを歌うことは何なのか。何をそこで歌っているのだろうか。辞書を調べてみると讃美とは、
・神の無限なる性質と神への絶対的な信頼である。
・神の恵みに対する信仰者の応答であり,感謝のささげ物である
・神の偉大さと,その至高善の人格とを認めること
・すべての栄光は当然神に帰属するものであると認識し,これを告白すること
・賜った恵みへの感謝
ということのようだ。辞書を見ると余計に分からないという気もするけれど、要するに神を神と認めること、その神に信頼すること、その神に感謝すること、それが讃美ということのようだ。
ここではキリストこそ讃美を受けるにふさわしい方と言われている。キリストが神であり、私たちの全てを支配している方、私たちが信頼すべき方、信頼して大丈夫な方であるということだ。
苦しみのまっただ中にある者にとってもこのイエスを信じておけば大丈夫、屠られたような小羊であるイエスであるけれど、この方こそが巻物の封印を解くことができる、この苦しみを終わらせることができる方だということだ。
どんな苦しみの中にいても、私たちはキリストを見上げることが出来る、信頼するに足る方がそこにいてくれているというのだ。苦しみや悩みの中にあっても、ひとりぼっちではないということだ。
私たちも真っ暗闇の中にたたずむしかないような思いになることもある。そこから抜け出す力も勇気もなくしてうずくまるしかないようなこともある。しかしそんな時にもキリストを見よ、私たちの目には見えなくてもここに一緒にいるということだ。
人間にとってひとりぼっちであるということほど辛いことはないのではないかと思う。しかし私たちは決してひとりぼっちになることはない。失敗しても挫けても落ち込んでもキリストが共にいてくれているからだ。
私たちは苦しみ自体を見つめるあまりに、そしてその苦しみの大きさに圧倒されてしまってキリストを見失うようなこともある。しかし私たちが見失ったようなときにも、私たちが苦しみ倒れてしまうような時にも傷つき血を流すイエスがが共におられるのだ。
私たちはいろんな問題を抱えて生きている。いろんな苦しみや悲しみを抱えて生きている。そんな問題や苦しみや悲しみに埋もれてしまいそうなところで生きている。それらに押しつぶされそうな中で生きている。しかしだからこそこのイエスをしっかりと見つめようじゃないか、このイエスに頼ろうじゃないか、イエスこそ頼るべき方だ、イエスに頼れば大丈夫なのだ、黙示録はそう励ましているようだ。
私たちの希望はそこにある。決してなくならない希望がそこにある。