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礼拝メッセージより
前提
インターネットを見ると、色んな人の体験談をまとめているサイトがある。それを書いている人の特徴があって面白い。うまくまとめてあってすごく読みやすいものもあれば、読んでいて分かりにくいものもある。そうしたのはどっちの人か、それを言ったのが誰なのかがよく分からない時がある。そんな主語がはっきりしないものはとても分かり辛い。
それと最近気になることがある。それは、ここまでが前提、という書き方をしている人が結構いるということだ。これから説明する話に出てくる人達の説明を前もってしてから本題へ入っていこうということで、本題へ入るまでのことを、ここまでが前提、と言いたいんだろうけど、その言葉要らないだろうとよく思う。もう既にその話しを読みながら、その話の中に入り込んで次はどうなるのかとわくわくしているのに、ここまでが前提と言われると、一度外に出て入り直せと言われてるような感覚になる。前提なんていう言葉がなくても話しは通じるし、前提なんて言わない方がよほどすっきりとしているのになあ、なんて思う。
しかしそんなこと思うのは屁理屈なんだろうなあと思いつつ、しかし今日の黙示録は前提のような話しだ。
天上
ヨハネは七つの教会へ手紙を送るようにと言うイエスの言葉を聞いた後、今度は天に上ってこい、この後起こることを見せようという声を聞き、霊に満たされて天井の様子を見せられる。天に上って行ったということなんだろう。
天には玉座があってそこに誰かが座っている。その誰かは碧玉や赤めのうのようで、玉座の周りはエメラルドのような虹が輝いていた。玉座もそこに座っている誰かも宝石のように光り輝いている。
そして玉座の周りには白い衣を着て金の冠をかぶった24人の長老が座っている。またそこには前にも後にも目がある四つの生き物がいた。第一は獅子のようで、第二は若い雄牛、第三は人間のような顔を持ち、第四は鷲のようで、それぞれ六つの翼があって一面に目があった。四つの生き物と長老たちが神を讃美していた。
ヨハネが見た不思議な四つの生き物だが、旧約聖書にある黙示文学であるエゼキエル書1章5-14節に出てくる生き物と似ている。
『またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。脚はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏に似ており、磨いた青銅が輝くように光を放っていた。また、翼の下には四つの方向に人間の手があった。四つとも、それぞれの顔と翼を持っていた。翼は互いに触れ合っていた。それらは移動するとき向きを変えず、それぞれ顔の向いている方向に進んだ。その顔は人間の顔のようであり、四つとも右に獅子の顔、左に牛の顔、そして四つとも後ろには鷲の顔を持っていた。顔はそのようになっていた。翼は上に向かって広げられ、二つは互いに触れ合い、ほかの二つは体を覆っていた。それらはそれぞれの顔の向いている方向に進み、霊の行かせる所へ進んで、移動するときに向きを変えることはなかった。生き物の姿、彼らの有様は燃える炭火の輝くようであり、松明の輝くように生き物の間を行き巡っていた。火は光り輝き、火から稲妻が出ていた。そして生き物もまた、稲妻の光るように出たり戻ったりしていた。』
黙示録ではこのエゼキエル書の生き物を参考に書かれているようだ。
エゼキエル書では四つの生き物はみんな同じ姿をしていて、それぞれ人間、獅子、牛、鷲という四つの顔を持っているが、黙示録ではその四つの顔がそれぞれ四つの生き物ということになっている。
前提
光輝く玉座に光輝く神が座っていて、この四つの生き物と長老たちが神を讃美しているというのが黙示録の前提となっている。
神々しく輝く神を周りの者が讃美している、それが天上での世界だということか。
当時の現実の世界は、苦しい状況だった。信仰を守ることが命の危険にさらされるような、いわば暗黒の時代だった。しかし逆に天上では光輝く神がいると言うのだ。
私たちには天上の世界は見えない。見えないけれど、そこには神がいる、神々しく輝く神がいる、そしてそこでは讃美が溢れている、ということなんだろうか。
私たちには全てが見えている訳ではない、見えているものだけが全てではないんだということをヨハネは言いたいような気がしている。私たちには見えない天上の世界がある。見えない神が天上にいて、実はその神が全てを支配しているんだということを言いたいようだ。
当時の宇宙観から言うと天は大空の上にあると思っていようで、だからこういう表現になっている。今の宇宙観から言うとどこになるんだろうか。天は見えないということになるんだろうか。
しかし見えるものだけが全てではない、見えない所で神が支配しているのだということ、それが私たちの世界の大前提なのだということをヨハネは伝えているのだと思う。
苦しい現実、思うように行かない現実ばかり見せられて苦しんでいる教会に対して、たとえ見えなくとも、私たちには光輝く神がいる、実はその神がすべてを包み込み、全てを支配しているんだ、今は苦しいけれども、私たちはこの神によって支えられている、この神に生かされている、この神は決して見捨てることはない、ヨハネはそう言っているのだろう。
見えない神に思いを馳せること、そこに苦しい現実を生きる力が湧き起こってくるのだと思う。
ここまでが前提。5章からは小羊が登場する。