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礼拝メッセージより
ローマ帝国
時代は1世紀末。ローマ帝国が支配していた時代。パレスティナで戦争が起こった。この戦争はローマとユダヤ教反逆者の戦いということだったらしい。その後ユダヤ教徒とユダヤ人キリスト者が移民や難民としてアジアにやってきた。アジアにはユダヤ人が以前から住んでおりかなりの力を持っていて、ローマからもある程度認められている存在だった。
またローマは皇帝を神として崇拝するようにという命令を出すようになっていったが、ユダヤ人には、皇帝のために祈るということで、皇帝に祈ることはしなくてもいいという特例を認めてもらっていたそうだ。キリスト者の多くも当初はユダヤ人が多く、自分たちもユダヤ教の一派であると思い、ローマもそのように認めていた。しかしこの戦争を機に、ユダヤ教としては改めてユダヤ人とは何者か、ということを吟味することになった。
しかしキリスト教は次第に異邦人へも伝道し、ユダヤ人だけの宗教ではなくなっており、何よりイエスをキリストと認めるということはユダヤ人にとっては受け入れられないものだった。ユダヤ教としては反逆者がローマと戦ったことによって自分たちの立場を明確にする必要に迫られ、異端的なものを排除することになった。
キリスト教は、肉を食べ血を飲むという噂があったり、そもそも反逆者とされたイエスを神とあがめているというようなこと、あるいは社会的に差別され抑圧されている者が多かったことなどから、非国民と見なされ危ないグループという風に見られていた。ユダヤ教の傘の下に入れてもらえているときには、皇帝崇拝をしなくとも認めてもらえたキリスト教だったが、ユダヤ教ではないとなると途端に危機にさらされることになる。
64年にローマで大火事があったときに、時の皇帝ネロはキリスト者を放火罪で告訴し、逮捕し、その中の多くの者を処刑した。そんな無謀なことができたのもそういった背景があったからのようだ。そんなことから社会的には部外者とみなされていて、しばしば社会的・経済的な差別を受け、いろいろな攻撃にさらされていた。皇帝崇拝を強要される中で、ただ真の神のみを礼拝するということで皇帝を崇拝しないということは大変なことだ。
黙示録
ヨハネの黙示録はそんな時代の教会へあてた手紙である。形としては黙示文学と言われるもので、映画の場面のような映像的な表現で書かれている。怪獣のようなものが登場するようなことが書かれているがそれらも何かを象徴的に表していることだと思う。黙示録が将来起こるであろう歴史的な事柄を予告しているのではないか、あの怪獣はあいつのことではないか、という風に言われることがあるが多分そういうことではないだろう。
そうではなく、その当時のいろんな迫害や差別、攻撃にさらされている教会に対する励ましの手紙、それがヨハネの黙示録だ。
キリスト
そしてこのヨハネの黙示録の中心がやはりイエス・キリストである。そして黙示録の著者は終末がもうすぐやってくると語る。
終末は何もかもがなくなり崩れてしまう時、ということではなく、イエス・キリストが再び来られる時である。この世の悪と不正をただされる時でありそれは私たちにも恐れを起こさせる。しかしそれは神がこの世界に罰を与えるための時というよりも、この世界を整え、神が完全に支配する時ということだ。そしてその時イエス・キリストは再び来られるという。そしてその時はもうすぐだというのだ。もうすぐイエス・キリストが来られる、だから今の苦しいときも堪え忍んでいこうという励ましの手紙、希望の手紙それがヨハネの黙示録だ。
イエス
黙示録の冒頭にはイエス・キリストのことが書かれている。
キリストのことが「今おられ、かつておられ、やがて来られる方・・・証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」(4-5節)、「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」」(8節)と言われている。
アルファとはギリシャ語のアルファベットの一番始めの文字、オメガは一番最後の文字。つまり最初から最後までの方、最初から最後まで支配しておられる方であるということだ。「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」なのだ。
私たちの信じている神はそのような方なのだというのだ。やがてまた来られ全てを整える方、最初から最後まですべてを支配しておられる方、そのキリストを私たちは信じているというのだ。そしてそのキリストがやがてまた来られる、雲に乗って来られるというのだ。だからどんなときにもこの神をキリストを信じていこう、キリストの言葉に従って生きていこうというのだ。
信じる
命の危険が迫るようなこともある中で、当時の人達はどうして信じ続けてこれたのだろうか。
現実にはいろんな差別や迫害がある中に生きているキリスト者たちであった。神を信じれば、祈ればその苦しみが消えてしまうというものでもない。依然として苦しみはある。変わらない現実を前にして、変わらない苦しみを前にして、それでも信じるということはどういうことだったのだろうか。信じるというのはどういうことなんだろうか。
信じる、というと何か自分が神を離さないように一所懸命に握りしめるようなイメージがある。差別されたり迫害されたりしても信じ通すというと、雨が降っても風が吹いても、あるいはどんなに殴られても叩かれても離さずに握りしめていくようなイメージがある。
そうしなさいとか、そうすることが素晴らしいことだと言われてもなかなか出来ないし、出来る人は凄い人だと思う。
しかし苦しいことばかりある中でもずっと離さずにしがみついているというのは並の人間に出来ることではないだろう。
たとえ今は苦しくても、キリストがまた来られるから、もうすぐ再臨があるから、それまで頑張って信仰を守り抜けと言われても、余計に苦しいような気がする。
信じるってのはそういう風に自分の力によって神を握りしめること、何があっても離さないで握りしめること、ではないような気がしている。
握りしめるとか握られるというよりもぴったりくっついているという感じなのではないかという気がしている。どうやっても離しようがないようにしっかりとくっついているという感じなのではないかと思う。
そんな風にイエスがぴったりとくっついているんだということを認めることが信じるということなのではないかという気がしている。
黙示というのは覆いが取り除かれることだと聖書教育にも書いてあった。覆いが取り除かれてヨハネが見たものはイエスの勝利だったようだが、しかしそれも天上での出来事だった。天上での出来事はやっぱり地上の人間には見えない。見えないけれど、天上で勝利したイエスが私たちと一緒にいる、ぴったりとくっついている、だからこの苦しみを耐え忍んでいこうと励ましているのがこの黙示録なのだと思う。
何があっても信仰を守り通せ、どんなことがあっても手を離すなというのではなく、どんな苦しみの中でもイエスがくっついてくれているんだ、そのことを忘れないで欲しいということを訴えているのではないかと思う。
私たちも苦しみのなくならない世界に生きている。神を信じれば苦しみがなくなるのであればいいと思うけれどそうはならないようだ。苦しみはなくならないけれども、しかし自分はひとりぼっちではない、イエスがくっついてくれている。そこに苦しみの中を生き抜く力が湧いてくるのだと思う。