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礼拝メッセージより
奇跡?
イエスが男だけで五千人の人にパンと魚を食べさせた、という話しは四つの福音書全てに書かれている。それだけよく知られた有名な話しだったのだろう。
昔見た映画では、イエスが祈っていると魚がどんどん沸き上がるように増えていったなんてのがあった。福音書に書かれている文字通りのことが起こったのかどうか。昔は聖書に書かれていることをそのまま信じることこそが信仰だと思っていて、理解できないけれど信じようというか、とにかく信じなきゃいけないと思っていた。
ある時誰かの説教で、少年が自分の持っていたものを捧げたことに感銘を受けて、みんなも自分の持っていた物を差し出したのでみんなが満腹になったんじゃないか、と言っていた、なるほどそうかもしれないと思うようになった。
今回もインターネットでいろんな人の説教を読んだ。理解できないけれど不思議なことが起こったのだ、質量保存の法則というような自然の法則に反するけれどイエスだからできたんだ、というような説教も多かった。確かにそう信じることで希望を持つこともできるのかもしれないけれど、じゃあ信じて祈れば自然の法則に反するようなことをしたのか、できるのかというとやっぱりそうはならないと思う。
ではなぜこんな奇跡物語が聖書に書かれているかというと、この物語を通して言いたいこと、伝えたいことがあるということだろうと思う。
命のパン
6章11節に「さて、イエスはパンと取り、感謝の祈りを唱えてから」そのパンを分け与えたと書かれている。これは主の晩餐の有り様にそっくりで、その後の「魚もおなじようにして」というのも、主の晩餐の時の、「盃もおなじようにして」というのとよく似ている。
要するに、この物語は主の晩餐においてイエスの体であるパンを食べることですべての人が満ち足りる、イエスこそがそんな命のパンなのだたということを伝えているのだと思う。
そしてその説明となるような話しが6章22節以下に書かれている。そこではイエスは自分こそが命のパンであるという話をしている。
6章26-27節「イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
6章32-35節「すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
6章51節「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
結局はこのこと、つまりイエスは天からのまことのパン、神のパン、命のパンであって、イエスのもとに来る者は決して飢えることがなく、イエスを信じるものは決して渇くことがない、ということを伝えたい、そのためにこのイエスが5000人を満腹にさせたという物語が福音書に載せられているということなんだろう。
どこで?
この物語でイエスがフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と問いかけている。これをこの物語を読む私たちに対する福音書からの問いかけのような気がする。群衆を満ちたらせる命のパンは一体どこにあるのか、といったところだろうか。
飢えた魂を満たすようなパンを私たちは持っていない、それは一体どこにあるのか。
イエスこそが飢えている私たちを満ちたらせる命のパンなのだ、と福音書は告げる。イエスはそこに集まってくるものすべてを満腹させるそんな命のパンなのだ、と告げる。イエスのその体を食べることで、つまりそれはイエスの言葉を聞くこと、イエスの思いを受け止めること、イエスに愛されること、実はそこに私たちを満ちたらせるものがあるということなんだと思う。
お前を愛している、お前が大事だ、お前はお前でいいんだ、そんなイエスの声を聞いていく、そこに喜びと安心感が生まれる。命のパンであるイエスを食べることで私たちは満腹するのだと福音書は言っているのだと思う。
パン屑
たまたまこの前の祈り会でマルコによる福音書8章を読んだ。そこには4千人に食べ物を与えたという話しが出ている。マルコによる福音書には6章で今日のヨハネによる福音書と同じ5千人に食べ物を与えたという話しがある。つまり同じような話しが二つある。祈り会でマルコによる福音書8章を読んだときに、残ったパン屑を集めると7籠になったと書いてあって、そのことが妙に引っかかっていた。今日のヨハネによる福音書でも残ったパン屑を集めた話しが出ていて12籠となっている。4千人の時に7籠、5千人の時に12籠。7とか12というのはどっちも完全数なのかなと漠然と思っていたけれど、今回ある人の説教の中で面白い話しがあった。
使徒言行録6章で、弟子の数が増えてきた時にギリシャ語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に日々の分配のことで苦情が出たという話しがある。そこで12弟子は、自分達が神の言葉をないがしろにして食事の世話をするのは好ましくないとして、評判の良い7人を選んで彼らに仕事を任せようと言った、という話しが出ている。日々の雑用を担当する7人の執事を選んだというような話しになっているけれど、使徒言行録を見るとのこの7人は説教をしたり聖書の解きあかしをしたりしている。実は教会内でヘブライ語を話すグループとギリシャ語を話すグループの対立があって、12弟子がヘブライ語をグループの代表であったのに対して、ギリシャ語を話すグループの代表として7人が選ばれたということのようだ。
12籠と7籠というのはその12弟子と7人のことではないかと件の説教では言っていた。残ったパン屑、それはつまり命のパンということになるけれど、イエスはそれを12弟子がリーダーとなっていたヘブライ語を話すグループに託した、そして7人がリーダーとなっているギリシャ語を話すグループにも託したということではないかと言っていて、今まで聞いてきた説教の中で一番納得できる説明だった。
教会内で意見の相違があったり対立するようなこともあったりしたけれども、イエスはどちらにも命のパンを与え満腹にし、残ったパン屑をどちらにも託したということをこの物語は告げているということのような気がしている。だからマルコによる福音書やマタイによる福音書では、同じような内容の話しを敢えて二つ載せているということなのではないかと思う。
命のパン
空腹ならば食料を調達すればいい、パンを食べればいい。しかし魂が空腹な時はどうすればいいのか。魂の空腹を満たすには命のパンが必要だ。魂の空腹とは何か。こんな自分ではいけない、こんな自分は認められない、こんな自分は誰からも相手にされない、こんな自分は駄目なのだ、と思っているということではないか。そして自分のだらしなさを嘆き、かつての自分を後悔し、自分の運命を呪い、自暴自棄になってしまう。そんな魂の空腹を満たすものを私たちは一体どこで手に入れることが出来るのだろうか。
そんな私たちに、イエスは命のパンを与えてくださるということだ。イエスは5千人を満腹させるような命のパンであるというのだ。
お前はお前でいい、そのお前を愛している、そのままのお前が大好きだ、そのままのお前が大事なのだ、イエスはそう言われているのだと思う。そうやって徹底的に肯定してくれているのだと思う。私たちはそうやって根底から支えられ肯定してもらうことで生きていけるのだと思う。そうやって私たちを生かす、だからこそイエスは命のパンなのだ。