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礼拝メッセージより
ふるさと
イエスはサマリアを通ってガリラヤへ帰ってきた。今日の少し前のところでイエスが「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言ったと書いてあるが、そのすぐ後でガリラヤの人達がイエスを歓迎したと書いてある。どうして歓迎されたかというと、ガリラヤの人達がエルサレムでイエスがしたことを見ていたからだった。
マスコミは毎年日本人の誰がノーベル賞を取るかということで大騒ぎして、ノーベル賞を取った途端に盛大に持ち上げる、というのと似ているような気がする。地元ではその価値が分かりづらいのかな。
王の役人
イエスがそのガリラヤのカナに行った時に、30kmほど離れているカファルナウムから王の役人がやってきて、自分の息子が死にかかっているから来て治してくれと言ってきた。
イエスは、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われたと書いてあるが、あなたがたはと言っているから役人に対して言ったというよりも、そう呟いたという感じなのかなと思う。
しかしイエスはそう言いつつ、「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」と言い、それを聞いた役人はその言葉を信じて帰って言った。途中僕が迎えに来ていて、イエスが息子は生きると言った時刻に息子の病気が良くなったことを知って彼も家族も信じた、という話しだ。
信じる
信じるというのはどういうことなんだろうか、とこの頃よく思う。去年ある作曲家が合唱の練習後の飲みの席で、信じるという歌の中にある「信じることに理由はいらない」という言葉に納得がいかない、というようなことを話していて、それ以来信じるというのはどういうことなんだろうかとずっと考えている。
信じるってどういうことなんだろうか。神を信じるというけれど、何をどう信じているんだろうか。
子供のころは近所の神社に初詣に行っていた。なんとなく習慣だったから行っていたけれど、その時にお祈りするわけだけれど何を祈ればいいのかよくわからなかった。お祈りと言うより拝むという感じかな。手を合わせて頭をさげる格好をするけれど、そこで元気でいられるようにとか成績があがるようにとか願えばいいのかもしれないけれど、なんだかそれも自分の中だけの希望で、それを誰かに伝えるという感覚もなかった。そんなこともあって中学くらいからは初詣にも行かなくなった。最初は行かないと悪いことがあたるんだろうかという恐れも少しあったけれど、それもだんだんなくなっていった。
テレビなどで、神社で手を合わせている人を見ると、何をどう祈っているんだろうか、どう信じているんだろうか、なんてことを考えながら見ている。
今日の役人は「あなたの息子は生きる」というイエスの言葉を信じて帰って行ったと書いてある。この時の信じるというのは、その言葉が本当にそうなると思ったということなんだろう。
最後に役人と家族もこぞって信じたと書いてある。この信じたというのは何を信じたんだろうか。イエスが神であると信じたんだろうか。イエスが救い主であると信じたんだろうか。神だとかキリストだとかまでは思わなくても、ただの人間ではない特別な人だということが分かったいうことなんじゃないかと思う。
受けること
私たちの信仰は受けていくことなんじゃないかと思う。イエスの言葉を受けていくことだと思う。
病気を治して欲しい、頭を良くして欲しい、金持ちにして欲しい、などどいろいろと願う。その願いが絶対叶うと強く思うこと、叶えてくれと強く訴えることが私たちの信仰ではないと思う。
その願いを神が必ず叶えてくれると思うことは、私たちの信じるということとは違うように思う。そうではなく、私たちがいろんなことを願うことに対して神がどう応えてくれるのかを聞いていくこと、、あるいは私たちが願う前から神が私たちにどう語ってくれているのかということを聞いていくこと、それこそが私たちの信仰であり、それを真摯に聞くことが私たちが神を信じているということなんだと思う。
役人はただイエスの言葉を受けとめて帰っていった。本当はイエスを連れて帰りたかったというか、一緒に帰るつもりだった。最初の思い通りには行かなかった。どうして来てくれないのかと思っただろう。わざわざやってきたのに、その言葉だけなのかと思っただろう。本当に生きるのかと思っただろう。どうして来てくれないのか、どうやったら来てくれるのか、お金が欲しいならいくらでも出す、なんてことを思わなかったんだろうか。
心のどこかでそう思ったんじゃないだろうか。でも結局はこの役人はイエスの言葉を受け止めて、その言葉だけを持ち帰った。そのことを福音書は信じたと書いているのだろう。
そして彼も家族もこの日の出来事を、そしてイエス自身を受け止めた、それを信じたと書いているのだと思う。
私たちにとって信じるというのは受け止めるということなのではないかと思う。
だから私たち自身の願う気持ちを強くしたり、疑う気持ちを消し去ったりすることが大事なのではないと思う。ただイエスの姿、イエスの言葉、そしてイエスの愛、それを受けとめることこそが大事なのだと思う。
そこでは私たちがどうあろうと問題ではない。私たちがどれほどぼろぼろでも、破れかぶれていても、救いようがなくても、そんなことは問題ではない。イエスを、そしてイエスの言葉を受け止めるかどうか、それだけが問題なのだ。
思うように行かない現実の中で、不安と恐れの中に生きている私たちだ。素直に信じることもできない私たちだ。
疑いつつも結局はイエスの言葉にすがっていく、イエスの言葉を受けとめていく、それが私たちの信仰なのだと思う。