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礼拝メッセージより
「見られてた」 2015年12月27日
聖書:ヨハネによる福音書1章43-51節
ヒトリボッチ
2チャンネルのサンフレッチェのスレッドから
517 名前:U-名無しさん@実況・転載は禁止です[sage] 投稿日:2014/06/13(金) 07:09:34.98 ID:oqCrKrS50
クロアチアはミスした時のジェスチャーはミカがよくやってる奴してたな
手を叩くの
(注:ミカとはサンフレッチェのミキッチ選手の愛称、クロアチアの人。クロアチアは最後に「チ」が付く名前が多い)
553 名前:U-名無しさん@実況・転載は禁止です[sage] 投稿日:2014/06/13(金) 08:13:37.65 ID:JMfNMWKt0
>>517
シュートミスったら、よく手を叩いちゃうんだけど、オレはクロアチア人だったんだな。納得。
564 名前:U-名無しさん@実況・転載は禁止です[sage] 投稿日:2014/06/13(金) 08:48:25.00 ID:APnmeiux0
>>553
お名前はハゲッチかコブトリッチですか?
581 名前:U-名無しさん@実況・転載は禁止です[sage] 投稿日:2014/06/13(金) 10:49:14.23 ID:Lu/Dy/oN0
>>564
ヒトリボッチ
知られてた
ずっと昔にラジオで聞いた話し、ある番組に出してた手紙だったと思う。
その人が中学の時だったかな、お母さんが病気で亡くなってとても寂しかったけれど、お父さん始め家族はみんな一所懸命に頑張っていた。自分はとても悲しかったけれど、そんな顔を見せると周りが心配するので、そんな顔を見せないようにがんばってきた。そうやって本当の気持ちを隠してきたけれどそのしんどさをずっと抱えているようでとてもしんどかった。
大学生になった時だったかな、お婆ちゃんと話しをしているときに、あの頃あんたは本当に辛そうだったねえ、と言われたそうだ。自分の悲しさや辛さを見せないようにしてきたことで、自分の本当の気持ちは誰にも分かって貰えてないと思っていたのに、自分のことをちゃんと見てくれていたんだと分かってとても楽になった、というようなことを言っていた。
自分のことを分かってくれる人がいること、見てくれている人がいることはとても嬉しいことだ。そうじゃないヒトリボッチになることは実はいちばんつらいことなんじゃないかとも思う。
出会い
イエスと弟子たちとの最初の出会い。それはバプテスマのヨハネを通してだった。イエスの最初の弟子はバプテスマのヨハネの二人の弟子だった。そのうちの一人はシモン・ペトロの兄弟アンデレだった。彼らはヨハネが、「見よ、神の小羊」という言葉を聞いてイエスに従った。彼らはその日はイエスのもとに泊まったと書かれている。しかしイエスと出会ったときの会話は変な感じ。「何を求めているのか」「どこに泊まってるんですか」「ついて来たらわかる」。何なんだこの会話はと思うけれど、アンデレはすぐに兄弟のシモン・ペトロに、「わたしたちはメシアに出会った」と言い、シモンをイエスのところへ連れて行ってシモンペトロも弟子となった。
その翌日、イエスはガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポと出会って「わたしに従いなさい」と言われた。このフィリポとアンデレとペトロはベトサイダという町の出身だった。その後フィリポはナタナエルに出会い、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と告げた。要するに旧約聖書に約束されているメシア、キリストに出会った、それはナザレのイエスだということだ。
ナタナエル自身はナザレの隣り村であるカナの出身だった。ナタナエルは、「ナザレから何か良いものがでるだろうか」と言った。ナタナエルにとってメシアがナザレから出るなんてことは考えられないことだったようだ。ナタナエルは聖書をよく知っていたようだ。聖書にはメシアはベツレヘムで生まれると書かれている。ベツレヘムという地名は出てくるけれどもナザレという地名は聖書には出てこないわけで。
後でイエスが、あなたがフィリポから話しかけられる前にいちじくの木の下にいるのを見た、と言っているが、いちじくの木の下というのは、そこで瞑想する習慣があるのだそうだ。つまりいちじくの木の下にいるのを見た、というのはそこでお祈りしていた、あるいはメシアについて思いを馳せて瞑想していたということなんだそうだ。
ナザレからいいものが出るなんてことはない、というナタナエルに対してフィリポは、「来て、見なさい」と言ってナタナエルをイエスのもとへ連れて行った。自分が言ったことを否定されたような状況である。こんな時は、その人はこんなにすごい人なんだ、本当にメシアなんだということを一所懸命に説明して自分が言ったことが正しいということを主張しそうである。自分が言ったことの方が正しいということを相手に分からせよう、説き伏せようとしがちである。しかしフィリポは、来て見なさいと言った。つべこべ言わずに来て見ろよ、と言った。
見られてた
ナタナエルは、自分がいちじくの木の下にいるのを見たと言うイエスの言葉を聞いて、あなたは神の子ですと言った。
この見たというのは、イエスが透視能力のようなものを持っていて、その特殊な能力で見たのかと思っていた。まことのイスラエル人だ、この人には偽りがない、というのも特殊能力でナタナエルのことを見抜いて言ったのかと思っていた。だからナタナエルは、あなたは神の子です、なんて言ったのかと思っていた。
でもそうじゃないような気がしてきた。イエスはわりと近くから見ていて、ナザレから何か良いものがでるだろうかという話しも聞いていたんじゃないかと思った。そして真剣にメシアを求めている姿に対して、まことのイスラエル人だ、と言ったんじゃないかと思えてきた。罪も穢れもない人間だということではなく、罪も穢れもあるけれど、でも正直に真剣にメシアを求めていることを偽りがないと言ったのだと思う。
ナタナエルがあなたは神の子ですと言ったのは、イエスと話すその前から自分のことをしっかりと見られていた、見つめられていたことを知ったからではないかと思えてきた。もちろんイエスの眼差しを感じて言葉以外に感じることもあったと思うけれど、それと同時に、自分が気付くずっと前から自分のことを見られていた、見つめられていたことを通してイエスの迫力を感じたのではないかと思う。
それにしてもまことのイスラエル人とか偽りがないというのはちょっと言い過ぎなのではないかと思う。弟子たちはイエスの十字架を前にしてみんな逃げてしまった。ナタナエルもその内の一人なのだ。しかしそのナタナエルにイエスは、まことのイスラエル人だ、この人には偽りがない、と言ったわけだ。
自分が思うよりも断然いい評価をされたということなんじゃないかと思う。自分ではとてもじゃないけれどそんな人間ではない、と思うようなことを言われたんじゃないかと思う。ナタナエルは自分のことを最高に評価する、そのイエスに圧倒されてもいたんじゃないかとも思う。そこであなたは神の子だ、なんて言葉になったのだろうと思う。
イエスは私たちも同じように見つめてくれているはずだ。ナタナエルに会う前から彼を見つめていたように、私たちが気付く前から、また気付いていない時にもイエスは私たちを見つめてくれている。
イエスに見つめられ続けているのから、私たちはひとりぼっちではない。ひとりぼっちになることはない。