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礼拝メッセージより
「肉となった」 2015年12月20日
聖書:ヨハネによる福音書1章14節
言葉
昔茨城にいた頃、横浜にいる友だちのところへ遊びに行くことがあった。行ったことがないところだったのでどうやっていけばいいか電話で聞いた。確か京浜急行の快速に乗って、どこか忘れたけど普通に乗り換えて金沢文庫で降りるとかいう話しだった。その駅を北側に出て左側に向かって歩いて、それから何番目の信号を左に曲がって、踏切を越えて、右側になんとかいう建物が見えたらそこを左側に曲がって、、、、なんていうのを電話で聞いてこっちは地図を書いていた。よし分かった行くから、と行って電話を切った。
後で聞くところによると、そのことを友だちは仕事場の同僚に話しをしたそうだ。そうすると同僚の人は、それは無理だ、こんなわかりにくいところに全然土地勘のない者が来るのに、電話だけでそうやって説明しても来れない、と言ったそうだ。でも友だちはあいつなら絶対来ると言っていたそうだ。そして実際電話の説明だけでたどり着くと、来ると言っただろうと言ったそうな。
知らないところへ行くのに、電話でここを右にここを左に、この看板が見えたら右に、なんて言われても確かに難しい。こっちも地図を持っていて、そこにある道をなぞりながら聞くのならまだ行きやすい。でも地図も何も持ってないところで、言葉だけで目的地に行くのは難しい。大きい目立つ建物ならまだしも、普通の小さな家やアパートに行くのはとても大変。
知らない家に行く一番いい方法、それはそこの家の人に迎えに来てもらうことだ。迎えに来て貰えたら、こっちはその家の場所を全く知らなくても大丈夫だ。
神さまは神の家に私たちを招いてくれているようなものだと思う。けれど私たちはどこに神の家があるのか分からない。そこで神さまはお迎えを寄越した。それがイエス・キリストで、イエス・キリストは私たちを神の家へ連れて行くためのお迎えのようなものだと思っていた。
でもイエス・キリストがやってきたというのは、ただのお迎えではなく、神の家がこっちにやってきたということなのではないかと思えてきた。神自身がやってきた、神自体がやってきた、神の国がむこうからやってきたということなんだろうと思う。
言と肉
ヨハネによる福音書では冒頭にこんなことが書かれている。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(1章1-5節)
この言とは新約聖書の書かれたギリシャ語ではロゴスという単語で、当時ロゴスとは崇高なもの、穢れのないものというようなものと考えられていたそうだ。イエス・キリストは崇高なものとして初めからある神であり、イエス・キリストの内にある光は人間を照らす光だと宣言している。
その崇高な言・ロゴスに対して、疎んじられている穢れているものと見られていたのが肉、ギリシャ語ではサルクスという言葉だそうだ。
崇高な神である言に対して、私たち人間は肉を持つ穢れた存在であり、そこには越えがたい溝があるというような考えだったようだ。
ところが今日の14節では、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と言うのだ。崇高な神であるイエス・キリストが肉となり、つまり人間となりわたしたちのところにやってきたというのだ。そして私たちの間に宿られた、それは天幕つまりテントを張ってそこに住むという意味の言葉だそうだ。
「イエスさまははわたしたち人間のひとりとして生まれました。イエスさまは、暗闇の中に震えている人のそばによりそいました。行く先の分からない荒れ野を旅するような不安な人のそばで共に歩みました。苦しんでいる人といっしょに苦しみ、悲しんでいる人といっしょに悲しみました。」(聖書教育のおはなし)
言は肉となったというのは、イエスが肉体を持つ人間となったということ、弱さや迷いや悩みや持つ、そんな人間になったということだ。
神自身が人間となってやってきた、神が人間の側にやってきた、神の国が天国がむこうからやってきたということだ。
私たちの神は、私たちに向かって神の家までやってこいとは言っていない。罪も穢れもなくして綺麗になったら迎えてやるなんてことも言っていない。逆に神の方から私たちの所ややってきたというのだ。崇高な神であるのに、穢れた私たちの世界へとやってきて一緒に生きていると言うのだ。
いろんなことに思い悩み、苦しみ呻きつつ生きている、自分の駄目さや至らなさを嘆きながら生きている、そんな私たちが生きているこの肉の世界に、神自身が肉となってやってきて一緒に住んでいるというのだ。
肉となった
私たちはそのイエス・キリストに、肉体を持ったイエス・キリストに会うことは出来ない。見ることはできない。しかし今私たちはイエスと言として接している。聖書の言葉を通して、イエスの言と接している。そしてこのイエスの言はそのままイエス自身でもあるように思う。
神が、イエスが私たちを愛している、大事に思っているということも、神の手の中に抱きしめられるということを私たちは肌で直接感じることはできない。けれども、イエスの言葉を聞くことでそのことを知らされている。
私たちはイエスと顔と顔を合わせて話しをするようなことはできない。でもイエスの言を聞くことで私たちはイエスと会っている。
何年か前に、たまたま本屋で水越恵子さんの本を見かけてぱらぱらと読んだことを思い出す。ネットで調べると、彼女は結婚して子どもを産み、その子がダウン症だった。その後離婚して一人で子育てをしている、と書いてあった。
記憶が曖昧なのではっきりとは覚えていないけれど、本屋で読んだ時にも確かそんな大変な時のことが書かれていたように覚えている。そしてそんな大変な時に彼女が公演にいった時に、たまたま座ったベンチに誰かが文章を書いていた。それが聖書で、確か「だから、あすのことは思いわずらうな。あすのことはあす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」だったと思う。聖書じゃんと思った記憶がある。彼女はそれが何の言葉かも知らなかったみたいだけど、それを読んですごく楽になったと書いていた。
私たちは聖書を通してイエスの言葉に出会う、それはまさにイエスと会っているようなものだ。その言葉はイエスそのものとも言えるようなものだ。
それはまさにイエスが肉となって私たちの世界にきてくれたからだ。穢れた肉の世界にイエス自身がきてくれたからだ。いろんなことに思い悩み、将来を心配し不安になり、何も出来ない無力な自分を嘆いている、まさにそこにイエスはきてくれている、そして私たちの中にいてくれているのだ。
クリスマスはそんなイエスの誕生を喜ぶ時だ。イエスが私たちの所へきてくれている、だからこそクリスマスおめでとうなのだ。
「クリスマスのメッセージ、それは私たちは決してひとりぼっちではないということ。」(テイラー・コールドウェル)