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礼拝メッセージより
新年会
カトリック教会に行っている人の話しによると、新年最初の日曜日にはミサの後に教会の新年会をして、そこでビールを飲んだなんて言っていた。流石カトリック、懐が深いなと思った。
結婚式
イエスが5人の者を弟子としてから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があった。カナというのはイエスの育ったナザレから北に13qほどの所にある町だそうだ。その婚礼にイエスの母マリアもいた。そしてイエスと弟子たちも婚礼に招かれていた。
パレスチナの婚礼の儀式は夕方遅く行われて、式が終わると二人は既に暗くなった中、村の道を出来るだけ回り道をして、みんなに幸福を祈られながら自分達の新居に案内されたそうだ。新婚の二人は新婚旅行にいかないで、家にいて一週間その家を解放した。二人は冠をつけて婚礼の衣装を着ていたそうだ。普段は貧しく重労働をしていても、この時ばかりは王と王妃のように振る舞って、何でも言うことを聞いて貰えた、そんな最高に幸せな時であったそうだ。今でもパレスチナでは、多くの婚礼客が入れ代わり立ち代わり歌ったり踊ったりの祝宴が行われているそうだ。イエスと弟子たちもそんな祝宴に招かれたのだろう。
ところがそんな時にぶどう酒が足りなくなってしまった。ユダヤ人の祝宴にとってぶどう酒は不可欠なものだった。ぶどう酒は土地の豊かさを象徴する神の賜物であって、特に貧しい人たちにとって祝宴のぶどう酒は何よりの楽しみでもあった。また祝宴でぶどう酒がなくなるということは新郎新婦の面目を潰すようなことでもあったようだ。
イエスの母マリアはこの婚礼ではただの客ではなく、もてなす側の仕事をしていたらしい。マリアはイエスに、ぶどう酒が足りなくなったということを伝える。するとイエスは母に、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と答えたという。なんだかちょっとひどい言い方のように聞こえる。
しかしマリアはそれに腹を立ててしまうわけでもなく、召使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。マリアはイエスならどうにかしてくれると思っていたのだろうか。
イエスはマリアの期待に応えるかのように、召使いに水がめに水をいっぱい入れるよう、そしてその水をくんで宴会の世話役に持って行くように命じる。水がめは、家に入るときに足を洗うために必要だった。それとユダヤ人たちが律法の規定に従い清めの儀式に用いるもので、一つが100リットルほどもあったそうだ。
世話役はぶどう酒に変わった水を飲み、良いぶどう酒を今まで取っておくなんて珍しいというようなことを言った。これがイエスの最初のしるしであった、そして弟子たちはイエスを信じたという。
祝宴
こうしてイエスの最初のしるしは行われた、とヨハネによる福音書は告げる。みんなが二人の新しい門出を祝い、くつろいだ気分で祝宴を行っている、そんな時にイエスは最初の奇跡を行ったというのだ。二人の面目を保つということもあったのだろうけれども、ぶどう酒がなくなることでその場がしらけてしまわないために、祝宴の楽しい愉快な雰囲気を壊さないためにイエスは奇跡を行ったようだ。
イエスは結構愉快な面白い方だったのだろう。いつもしかめっ面して眉間にしわを付けていたわけではないんだろうと思う。周りの人間が歌ったり踊ったりするようなこともきっと喜んで見ていたのだろう。あるいは一緒に歌ったり踊ったりしていたのかもしれない。この話しはイエスのそんな有り様を伝えたかったのかもしれないと思う。水をぶどう酒に変えたことよりも、イエスがみんなと同じように結婚をお祝いし、その祝宴を楽しんでいたこと、その場を盛り上げようとしたこと、そんな中で生きたことを伝えたかったのかもしれないと思う。
ある人が今日の話しの中でこの水はきよめの水であって、そのきよめの水をぶどう酒に変えたことに意味がある、と書いてあった。
マルコによる福音書7:3-4「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。」
今日の箇所でも、水をいっぱいに入れたのはユダヤ人が清めに用いる石の水がめ、と書かれている。ユダヤ人たちは穢れを落とすために水がめを用意していて、外から帰る時には念入りに穢れを落としていたそうだ。穢れることは神から遠ざかることであって、とにかく穢れないように、穢れたものに触れないようにしていたそうだ。そして自分を穢れから一所懸命守りつつ、逆に穢れている人達、つまり穢れを落としていない人たち、穢れを落とせない人たちを見下し差別していた。
そんな穢れを落とすための水をイエスはぶどう酒に変えてしまったというわけだ。清めの水を喜びのぶどう酒に変えたということだ。
信仰とは喜びなのだ。穢れを恐れてびくびくすることではなく、そんな恐れから解放されて喜んで生きること、イエスは人々にそれを願っているということなんだろうと思う。
破顔一笑
ある人がこんなことを書いていた。「日本に伝わったキリスト教の福音はアメリカのピューリタンの流れを汲む禁欲主義で、禁酒禁煙を特徴としていた。この禁欲主義が人々から福音を隠した。福音とは「喜ばしい訪れ」であるのに、陰鬱な道徳教にしてしまった。」
信仰っていうと、自分の欲望を押さえてしかめっ面をすることのようなイメージがある。決められたことを必死に守ること、戒律を守ることのようなイメージがある。
戒律とまでは行かなくても、教会でもなんだかいつも静かにしていないといけないし、厳かにしていないといけないような雰囲気がある。けれども、そういうのをイエスが望んでいるというわけではないような気がする。礼拝でもなんだか笑ってはいけないような雰囲気があるが、げらげら笑ってもいいし、本当は教会の礼拝もそんな楽しいにぎやかな雰囲気の方がふさわしいのではないかと思う。
イエスがどうやって水をぶどう酒に変えたのかはよくわからない。神の力でやったのか、それとも何か秘密の方法があったのかそれはわからない。それよりも大事なのはイエスは祝宴を守った、祝宴の雰囲気を守ったということなんじゃないかと思う。イエスは楽しい喜びの宴を、そしてみんなの笑顔を守りたかったのだと思う。その笑顔を悲しみの顔に、失望の顔に、あるいは落胆の顔にしたくなかったのだと思う。
私たちは人も自分も駄目な所ばかりに目を向ける習性がついてしまっているような気がする。あれができてない、これができてない、あそこが間違っている、ここがおかしい、そうやって人を裁き、自分自身も裁いてばかりいる。そして次はいつ間違うか、いつ失敗するか、いつ裁かれるかという恐怖におののいている。いつ穢れるかと恐れているユダヤ人たちと似ている。
イエスは、ユダヤ人たちに対して穢れないことよりも彼らの喜ぶことを大事にしたように、私たちが失敗や間違いを恐れることではなく、喜んで生きることを期待しているということなんだと思う。
イエスは、私たちの笑顔が少しでも多くなるように願っているのだと思う。
もちろん私たちはいつも笑っていられるわけでもないし、なかなか笑うことも出来ない厳しい現実の中に生きている。失敗もするし間違いもする。けれどそんな失敗や間違いに押しつぶされてしまうような時もある。でもだからこそ喜ぶ時には精一杯喜んで欲しい、破顔一笑でいて欲しい、笑顔のもとになる喜びを与えたい、イエスはそう願っているのではないかと思う。
そんなイエスが共にいてくれること、そしてこの私を愛して大切に思ってくれていることを喜ぶこと、それこそが私たちの信仰なのだと思う。