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礼拝メッセージより
「見よ」 2015年12月13日
聖書:ヨハネによる福音書1章29-34節
子羊?
神学校にいたのはもう25年から28年位前になる。その頃はワープロ専用機が一般に出回りだした頃で、初めて買ったのも神学校の近くの電気屋さんだった。神学校でのレポートも初めは手書きだったのが、途中からワープロに変わったように記憶している。
何の授業だったか忘れたけれど、新約聖書関係で神学校の生徒が順番に発表する授業があった。発表の資料をみんなに配って発表する授業だったのだが、資料をワープロで作って発表していた。その中に今日の聖書の中に出てくる「神の小羊」という言葉があった。何故その事を覚えているかというと、それを「神の子羊」と間違っていて、子供の羊ではなく小さい羊だと指摘されたからだ。それまで子供の羊なのか小さい羊なのかなんて全然意識していなくて、ワープロが変換してたけれど、それが間違っていることに全然気付かなかった。授業中に違うと言われても、最初は何がどう違うのか分からなかった。
昨日ネットを見ていると、ある説教で「神の子羊」となっている説教があってそのことを思い出した。そこの牧師は神学校の時に間違わなかったに違いないと思った。
洗礼者ヨハネ
他の福音書によると、洗礼者ヨハネはイエスと親戚だったと書かれている。また荒れ野で神の国が近づいたことを人々に伝え、悔い改めを迫って罪の赦しを得させるバプテスマを授けていた。そしてイエスもヨハネからバプテスマを受けたと書かれている。イエスはどうやら最初このヨハネのグループに入っていたらしく、後にイエスの弟子となるシモンとアンデレもこのグループにいたようなことも書かれている。
ヨハネはイエスが世の罪を取り除く神の小羊であることを世間に知らしめることが自分の役目であると宣言している。彼は神の国が近づいていることを告げて、悔い改めてバプテスマを受けるようにと説いて、多くの人がそこに集まってきたようだ。しかし彼は自分のグループが大きくなったり力を持ったりすることを目指したのではなく、ただやがてメシアが来ること、そしてイエスこそそおメシア、神の子であるということを伝えることを目指した。
罪を取り除く
世の罪を取り除く神の小羊とはどういうことなんだろうか。神殿では小羊を自分の身代わりとして神殿で犠牲として捧げていた。つまりイエスはまさに世の身代わりとして捧げられる犠牲なのだということを言っているようだ。
しかし最近罪とはなんだろうかとよく考えるようになった。罪という言葉のギリシャ語はハマルティアというもので、もともとは的外れという意味なのだそうだ。罪と言うと悪いことをしたことというイメージがあるけれど、それよりも本来あるべき状態から外れている状態というようなこと、つまり本来神との関係を持って生きるべき人間が、神との関係から外れて生きているそんな状態、神との関係が断たれた状態、神なしでいきている状態であるということなんだろうと思う。
ヨハネが説いた悔い改めも、改心ではなく回心、つまり悪い心を良い心に改めることではなくて、心の向きを回す、神を向いていなかった心を神の方へ向きを変えるという意味なのだそうだ。
罪とはそんな神を向いていない状態を指しているようだ。そんな罪の状態を取り除くということは要するに神との関係を取り戻すということになるだろうと思う。つまり世の罪を取り除く神の小羊とは、人々を神との関係を持って生きるように連れ戻すための小羊ということなんだろうと思う。
それはどういうことなんだろうか。家から出ていた子供が家に戻ってくるようなものだろうか。イエスが後に放蕩息子の話をしたことがあった。本来居るべき家を離れていた息子が自分の家に帰ってくる、それこそが悔い改めであり救いだろう。父親は家を飛び出した息子の帰りをずっと待っていたというのだ。
イエスは私たちを神の家に呼ぶ戻すためにやってきたのだと思う。そして家で待つ神は、放蕩息子の父親のように私たちの帰りを今か今かと待っているということを伝えるためにもやってきたのだと思う。
私たちの悪い心を入れ替えて良い人間になったら立派になったら帰ってこいというのではなく、ただ向きを変えてそのままで帰ってこい、そのままで帰ってこい、ありのままのお前を待っている、そんな神の思いを伝えるためにイエスはやってきたのだろう。
ヨハネはイエスに聖霊が降ってとどまるのを見たから、イエスこそ神の子であると証ししたと語っている。ヨハネには聖霊が見えたのだろうか。それはどうかわからないけれど、ヨハネにはイエスがキリストであることが分かった、だからイエスを見よと言ったのだ。
見よ
「見よ」とヨハネは語った。イエスを見なさい、イエスこそキリストだ、救い主だ、世の罪を取り除く神の小羊だ、神の子だ、とヨハネは語っている。
このイエスを見なさい、イエスの生き様を見なさい、イエスの言葉を聞きなさい、ここに救いがある、神の方を向き神の声を聞く、それこそがあなたたちのいるべき場所なのだ、福音書は私たちにそう告げている。