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礼拝メッセージより
「照らされている」 2015年12月6日
聖書:ヨハネによる福音書1章1-5節
トンネル
何年か前、散歩をして休山トンネルを通って帰ったことがある。1.5km位なので大した距離じゃない思うけれど、、僕にとってはとてつもなく苦痛だった。トンネルの中を歩いている間、同じ風景がずっと続くというのに耐えられないような気持ちでいた。
別に暗闇の中を歩いているわけでもないし、先に出口があることも分かっているのに、出口が見えるところまでもなかなか行き着かなくて大変だった。
苦しい人生を生きるというのはこんな感じなんじゃないかなと思う。きっと出口はあるだろうと思いつつというか、出口があることが分かっていたとしても、やっぱりそこに行き着くまではしんどいだろうなと思う。
休山トンネルだと光がある分まだましかもしれない。光のない真っ暗闇に迷い込んだような時、私たちはどうすればいいんだろうかなんて思うと本当のゾッとする。
初めに
まるで創世記の最初の「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」(1:1-3)を彷彿とさせるような文章だ。
創世記はバビロン捕囚の時代に書かれたと言われている。国が滅ぼされ遠い異国に補囚された人達は、その苦しい状況の中で改めて自分達の信仰について、また神について考えたようだ。
同じように、このヨハネによる福音書がまとめられたとき、キリスト教会はユダヤ教からは異端だと宣言されていたようだ。当時地中海地方を支配していたのはローマ帝国だった。ユダヤ人はローマ帝国の中に広い地域に住んでいて、ユダヤ教は偶像崇拝をしないことも理解されていて、ローマ帝国の掟だった皇帝崇拝もユダヤ教徒であるならばしなくてもよいと赦されていたそうだ。キリスト教会もユダヤ教の一派と考えられていた時には赦されていた偶像崇拝も、ユダヤ教から異端と宣言されることでユダヤ教として認められていた特権もなくしてしまうことになったようだ。そんな危機的な状況の中でこの福音書はまとめられたようだ。
バビロン捕囚の時に先行きが見えない状況の中にいたユダヤ人たちと同じように、ヨハネによる福音書の時代の教会は苦難の中に立たされていたようだ。先が全く見えない真っ暗闇の中にいるような思いでいたのだろう。しかしその時教会はその暗闇の中で神を、イエスを見つめていた。
初めに言があった、言は神と共にあった、言は神であった、と語る。神とともにある神というのはどういうことなのか分かり辛いけれども、要するにこの言は創世記にある天地創造をしたその神なのだということのようだ。だから万物はこの言によって成ったと言われている。
そして言の内に命があり、その命は人間を照らす光だったという。その光は暗闇の中に輝いているけれども、暗闇は光を理解しなかった、というのは、その時の教会の状況を言い表しているようだ。
光
ある人の説教の中に面白い話しが書いてあった。
「心理療法家の河合隼雄は子供の頃読んだ印象的な話を紹介して、あるところで次のように語っています、「何人かの人が漁船で海釣りに出かけ、夢中になっているうちに、みるみる夕闇が迫り暗くなってしまった。あわてて帰りかけたが潮の流れが変わったのか混乱してしまって、方角がわからなくなり、そのうち暗闇になってしまい、都合の悪いことに月も出ない。必死になってたいまつをかかげて方角を知ろうとするが見当がつかない。そのうち、一同のなかの知恵のある人が、灯りを消せと言う。不思議に思いつつ気迫におされて消してしまうと、あたりは真の闇である。しかし、目がだんだんとなれてくると、まったくの闇と思っていたのに、遠くの方に浜の明りのために、そちらの方が、ぼうーと明るく見えてきた。そこで帰るべき方角がわかり無事帰ってきた。」(横浜指路教会のHPより)
ヨハネによる福音書では、言の内に命があった、そしてこの命は人間を照らす光である、その光は暗闇の中で輝いていると告げる。
昔アメリカに行っていた人から真っ暗闇を経験したという話しを聞いたことがある。ある時鍾乳洞に行った時に中で電灯を消してくれたそうで、その時には全くの暗闇で全然光が見えなかったと言っていた。
そんな真っ暗闇を経験することはあまりないし、物理的な暗闇であれば火を灯せばすぐに真っ暗闇ではなくなる。
しかし人生の暗闇に遭遇するとどうしたらいいのだろうか。全く動けなくなってしまう。どうしていいのか分からない。人生の真っ暗闇に迷い込んだ時に、その暗闇を消し去る光はどこにあるのか。
聖書はイエス・キリストこそ、その光なのだと告げている。イエスは私たちの人生の暗闇の中で燦然と輝いている。イエスはまたすべての人を照らす光である。
その光とは何なのだろうか。人生を照らす光とは何なのか。そもそも人生の暗闇とはなんなのだろうか。それは自分が自分でいいと思えないこと、こんな自分では駄目なのだと思うこと、こんな自分は誰からも認められないと思う、そして誰からも見捨てられて一人ぼっちなのだと思うことなのではないかと思う。世界でひとりぼっち、宇宙でひとりぼっち、それこそが暗闇なのではないかと思う。
しかしそんな暗闇の中にいる私たちに光がさした、それがイエス・キリストなのだ。それは私たちを決してひとりぼっちにはしないということだ。たとえ誰からも認められなくなったとしても、自分のことを誰にも分かってもらえなくても、そんなときでも一緒にいるということなんだろうと思う。決して一人ぼっちにはさせない、いつも共にいる、それが私たちにとっての光なのではないかと思う。ひとりぼっちになってしまい、自分のせいだ、自分が悪いのだ、どうしてこんなに駄目なのかと自分で自分を責めるようなこともある。そんな真っ暗闇にも光がやってきた、と聖書は告げるのだ。私たちを決して見捨てない、いつまでもどこにいても共にいる、そんなイエス・キリストがやってきたというのだ。
そんな言が、イエス・キリストが肉体となって私たち人間の世界に来た、という。神が人間として生きたというのだ。それがイエス・キリストであるとこの福音書は告げるのだ。
「クリスマスのメッセージ、
それは、私たちは決してひとりぼっちではないということ。」
テイラー・コールドウェル
一つの失敗したことですぐ落ち込み、誰かを傷つけたとまた落ち込み、私たちはどんどんどんどん暗闇へ落ち込んでいく。自分ひとりで真っ暗な穴蔵に沈み込んでいく。
しかしそんな私たちに照らす光がある、この光はどんな時でもあなたを照らしている、聖書はそう言っているのだろう。この福音書を書いた人はそう感じて生きているのだろう。その光はあなたをも照らしているのだ、そう伝えたいのだろうと思う。
私たちはイエスの言を聞くことで、その光に照らされていくのだ。
だから私たちは決してひとりぼっちではない、ひとりぼっちにはならない。