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礼拝メッセージより
「とどまれ」 2015年11月29日
聖書:エレミヤ書42章18節-43章8節
逃げる
幸せは猫のようなものだと聞いたことがある。追いかけると逃げてしまうけれど放っておくと寄ってくるのだそうだ。逆に嫌なことは逃げようとすればするほど追っかけてくるような気がする。追っかけたり追いかけられたり、そんな人生だなあと思う。
混乱
紀元前588年1月バビロン軍はエルサレムを包囲し、1年半の攻防の後紀元前587年7月にエルサレムは陥落する。バビロンに反抗していたゼデキヤ王は最後はエルサレムから逃亡したがバビロン軍に捕らえられた。バビロン軍はゼデキヤ王の目の前で王子たちを殺し、ユダの貴族たちも殺し、その上でゼデキヤ王の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめてバビロンに連れて行った。また王宮と民家を焼き払って、エルサレムの城壁も取り壊した。そしてユダの人々も一部の貧しい人達を残してバビロンへ連れていかれた。
バビロンはシャパンの孫、アヒカムの子ゲダルヤを総督としてユダに残った人々を管理させた。ゲダルヤの祖父シャパンはかつて宗教改革を行ったヨシヤ王の側近で、父のアヒカムはエレミヤの擁護者だった。ゲダルヤは和平派の貴族だったのでバビロン王は彼を総督に任命したようで、ゲダルヤはバビロン王に従いつつユダの地を再建しようとした。
ゲダルヤはエルサレムの北13kmにあるミツパというところを拠点として活動していた。そのことを聞いた隣国に避難していた人達も戻って来た。しかしゲダルヤが総督になったことを喜ばない人々もいた。王族の血を引くネタンヤの子イシュマエルは、王家の血筋でもない者が支配することが気に入らなかったようで、隣国のアンモンの王にも唆されてゲダルヤを暗殺し、そこに駐留していたバビロン軍も殺してしまう。またかつての北イスラエルから神殿にささげものをしようとやってきた人達も殺し穴に放り込んでしまい、ミツパにいた人達を捕虜としてアンモンへ逃れようとする。
アンモンはユダと共にバビロンの脅威にさらされていたが、ユダを混乱させてバビロン軍の注意をユダに向けさせておきたかったので、イシュマエルを唆して暗殺させたようだ。
かつて暗殺計画を察知したカレアの子ヨハナンはゲダルヤにそのことを伝え逆にイシュマエルを暗殺しようと進言したが、ゲダルヤはそんなことをしてはいけないと答えて殺されてしまったなんてこともあったが、そのヨハナンたちはアンモンへ逃亡するイシュマエルを追跡し、イシュマエルが捕虜とした人々を救い出したが、イシュマエルと彼の家来はアンモンへと逃げていった。
ヨハナンはバビロン王が総督として任命したゲダルヤと駐留していたバビロン軍を殺してしまった、そしてその犯人であるイシュマエルを逃してしまったことで、バビロンからの報復を怖れて、イシュマエルから連れ戻した人達と一緒にエジプトへ向かおうとする。
エレミヤはエルサレムが陥落した後すぐにはバビロン軍に連行されていたが、バビロンへ行くかユダに残るかという選択をすることを許されユダに残ることになった。そのエレミヤの所へ、エジプトへ逃れようとしていたヨハナンたちがやってきて、自分達の進むべき道を主に聞いてくれ、主が告げられたとおりに実行することを誓うから、と言った。
10日たって主の言葉がエレミヤに臨んだ、と書いてある。ずっと祈ったのか、それとも祈った後の返事が10日後だったのだろうか。それは兎に角、主の言葉は、この国に留まるように、バビロンの王を恐れるな、わたしがあなたたちと共にいて必ず救い彼の手から助け出すから、しかしエジプトへ行って寄留するなら剣と飢えがあなたたちにとりつきそこで死ぬ、というものだった。
肯定
その主の言葉の続きが今日の聖書箇所になる。
あなたたちは致命的な誤りを犯そうとしているとエレミヤは伝えた。しかしそれを聞いたヨハナン始め高慢な人々は、エレミヤにあなたは間違っていると言った。主はエジプトへ行って寄留してはならないなんて言ってない、と言った。あんたに主の言ってることが分かるならどうして俺に聞くんだ、と言いたくなりそうだ。
今エレミヤ書を読んでいると、馬鹿な人達だとか、不信仰な人達だと思うけれど、でもどうしてこの人たちはエレミヤの伝える主の言葉を素直に聞けなかったのだろうか。
要するに自分達のこれからやろうとしていることを追認して欲しかっただけなんだろうか。自分のしていることを肯定してもらうことで安心してそれを実行できる。これからやろうとしていることに不安や心配があるときと、大丈夫なんだろうか、本当にいいんだろう、やっぱり駄目なんじゃないかかなんて思ってやっていると、普段しないような失敗をしたり、もう少しで成功するのに寸前で諦めてしまったりなんてことにもなる。
だから、それで良い大丈夫だと言ってもらえることで落ち着いてやれたり、自信を持ってやることで期待以上のことが出来たりなんてこともある。
不安と恐れ
今日の聖書のヨハナンたちもそんな自分達を肯定してくれる声を期待していたんだろうと思う。そしてそれはやはり不安の裏返しでもあるのだろう。
バビロンに従っていこうと思っていたのに、バビロンが任命した総督を殺し、その犯人も逃してしまった、この責任を追及されたらどうなるか分からない、あの恐ろしいバビロン軍と再び対峙することはもうこりごりだ、それだけは絶対嫌だ、神がそうしろと言われてるなんて聞いてもやっぱり無理だ、そんな恐怖があったのだろう。逃げたい、逃げたい、そんな思いだったんじゃないかと思う。だからエレミヤの言葉を本当の神の言葉ではないと思おうとしているのだろう。神はエレミヤを遣わしていないとか、バルクに唆されて言っているだけで本当の神の言葉ではないと思うことで、本当は神は自分達の計画を否定してはいないと思いたかったのだろう。
逃げ
大丈夫だ、ここにいれば大丈夫だ、心配するな、彼らは神のそんな言葉を信じることが出来なかった。エジプトへ逃れることでバビロンに対する恐怖からは逃れることができたであろう。けれども彼らは自分達の行動を肯定する言葉を聞けていない。いわばそんな後ろ盾のないままに、後ろ盾を失ったままで生きることになった。
本当にこれで良かったのだろうか、本当はエレミヤの言うとおりにしておけばよかったんじゃないか、という別の不安にずっと襲われることになったんじゃないかと想像する。
つまりバビロンという外側の不安と恐れから逃げることで、逆に自分自身を肯定してくれる神を失うという内側の不安と恐れにさいなまれることになったんではないかと思う。
とどまれ
神の言葉は、大変つらい現実に直面しなさいとか、苦しい現実をしっかり見なさい、と言うようなことでもあると思う。自分自身の真の姿をしっかりつ受け止めなさいというようなことでもあると思う。その現実の中に留まること、その中で生きること、つまりだらしない、駄目な、小さな自分で生きるということは時としてとてもしんどく辛いことだ。
不安も恐れもいっぱいあるだろう、けれどもあなたは自分に留まりなさい、もう逃げなくて良い、自分自身に留まりなさい、そのあなたで生きなさい、そこに私も共にいるから、大丈夫だ、私はいつまでもあなたの味方だから、神は私たちにもそう言われているような気がしている。
きみ歌えよ 谷川俊太郎
哀しいこと つらいこと
ひとりで歌えよ
あのひとの名を大声で
歌えば 歌えば 歌えば ああ
うそのなみだは出てこない
きみ歌えよ
うれしいこと 好きなこと
ひとりで歌えよ
バカも卑怯もまるだしで
歌えば 歌えば 歌えば ああ
ベートーベンもともだちさ
きみ歌えよ
きみのこと 洗いざらい
ひとりで歌えよ
こわれたギター抱きしめて
歌えば 歌えば 歌えば ああ
誰かがいつか耳すます
実は今日コンサートがあってこれをアンコールで歌う予定にしている。きみ歌えよ、いうのは僕は、きみ祈れよ、と言われている様に勝手に解釈している。きみ祈れよ、バカも卑怯もまるだしで、きみのこと洗いざらい、ひとりで祈れよ、神はそれに耳をすましている、そんな風に思っている。
君は君で良い、だから君自身にとどまって生きなさい。君が大好きだからだ、君が大切だからだ、そんな君の声を聞いているよ、神はそう言われているのだと思う。