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礼拝メッセージより
「希望の先取り」 2015年11月22日
聖書:エレミヤ書32章6-15節
時
ユダの王ゼデキヤの第10年、ネブカドレツァルの第18年、バビロンの軍隊がエルサレムを包囲していたその時、エレミヤはユダの王の宮殿にある獄舎に拘留されていた、ということが32章1節に書かれている。その理由は、エレミヤが、エルサレムがバビロンの手に落ちて、ゼデキヤはバビロンの国に連れて行かれる、ということを預言したからだった。
『「主はこう言われる。見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこの町を占領する。ユダの王ゼデキヤはカルデア人の手から逃げることはできない。彼は必ずバビロンの王の手に渡され、王の前に引き出されて直接尋問される。ゼデキヤはバビロンへ連行され、わたしが彼を顧みるときまで、そこにとどめ置かれるであろう、と主は言われる。お前たちはカルデア人と戦っても、決して勝つことはできない。」』(32:3-5)
バビロンの脅威が文字通り目の前に迫ってきていた時に、この戦いは負けるなんてことを言われると戦意も喪失してしまうだろう。この前の戦争でも日本が負けるなんて言うと非国民だなんて言われてひどい目にあった人もいたようなことを聞くけれど、何時の時代でも変わらないのかもしれない。
エレミヤの言葉に気を悪くしたゼデキヤはエレミヤを牢屋に入れてしまった
土地
そんな時に主の言葉がエレミヤに臨んだ。それはエレミヤのいとこのハナムエルが自分の畑を買ってくれと言いにくるから買い取れということだった。もうすぐユダは滅ぼされ、占領され、何もかも取り上げられようとしている。今頃土地を買ってもそれを占領軍に取り上げられてしまえばそれで終わりである。しかもエレミヤは、神からのこの戦いは負けるという言葉を王に伝えたばかりなのだ。もうじき占領されるてしまうと言っているその土地を買えという矛盾したことを神は命令しているように見える。
エレミヤは神の命令に従って、正式な購入証書を作成して銀17シェケルで正式に畑を買い取った。17シェケルは約200gだそうだ。証書を作ったのはいいが、戦いに負けて占領されてしまえばどうなるかもわからない、ただの紙切れになってしまう可能性だって低くない、あるいは将来占領が解かれれば自分の土地となるかもしれないけれど、それだってそれがいつのことになるのかさっぱり分からない、そんな時期に神はこの畑を買えと言った訳だ。
当時は貧しくて土地を手放すときには親戚が買うことになっていたそうで、貧しい親戚のためには一肌脱ぐということでもあったのかもしれない。しかし国が滅びようかという時には土地を持っているよりもお金にしておきたいと誰もが考えていたのではないかと思う。この話にエレミヤが素直に乗ってくれたことは、ハナムエルにとっては全く好都合だったのではないかと思う。
エレミヤが今日の箇所の最後に言った、「イスラエルの神、万軍の主が、『この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取る時が来る』と言われるからだ。」という言葉をハナムエルはどういう気持ちで聞いたんだろうか。あんたがそう思ってくれてたから思いの外高く売れてちょうど良かった、なんて思ったんじゃないかな。
祈り
エレミヤは神の命令通りにした。しかしエレミヤはこの命令に納得して賛同してそうしたのではないようだ。もうじき占領されることが誰の目にも明らかな時にそんなことをするのは馬鹿げたことだと思ったのだろうと思う。
エレミヤはその後神に祈ったということが書かれている。あなたの力によってエジプトから救い出されてこの土地へ導かれた民でしたが、あなたの命令を守らずあなたは災いをくだされ、もうじき占領されようとしています、「それにもかかわらず、主なる神よ、あなたはわたしに、『銀で畑を買い、証人を立てよ』と言われました。この都がカルデア人の手に落ちようとしているこのときにです。」(32:25)
エレミヤは祈らないではいられなかったのだろう。なぜこんな馬鹿げたことを命令するのか。理解できない、ただ私を貧乏にするためか、なぜこんな無駄なことを命令するのか、そんな気持ちがあったのだろう。
それに対して主が答える。「見よ、わたしは生きとし生けるものの神、主である。わたしの力の及ばないことが、ひとつでもあるだろうか。」(32:27)
すべては私の計画、私の意志の下に起きている出来事なのだ。国が滅びるのも、そしてやがて再建することも私の計画なのだ。やがてまたこの国で人々が畑を買うようになる、やがてまたこの国を繁栄させる、だから今あなたは畑を買いなさい、やがてまた国が繁栄するという私の約束を、あなたが畑を買うという行為で示しなさい、ということのようだ。
嘆息
エレミヤは神の言葉をただ素直に信じ切っていたのだろうか。ただただ何でも神の言葉だからとバカ正直に信じていたわけではなかっただろう。
エレミヤは神の命令通りに畑を買い、証書を作り、その後に神に問いかけた。この順番が面白いと思う。命令されても納得いかないと言って神に祈り、その後実行したんじゃなくて、命令されて実行し、その後で祈っている。
その祈りの最初の言葉が「ああ、主なる神よ」(17節)である。「神さま、あなたの言われたとおりやりました、ハレルヤ」ではなかった。「ああ神よ、今どうしてこんなことをしないといけないのですか、どうしてこんな時に」というのがエレミヤの祈りだった。神の命令通りに畑を買った、しかしそれでも納得できないものがエレミヤの心の中にくすぶり続けていたのだ。
希望
エレミヤは購入証書を作成したときに、やがてこの国で土地を買い取るときがやってくるということを聞いてはいる。しかしその後に、ああ主なる神よ、と嘆きのような祈りをしている。神の約束は聞いてはいるが素直に信じられるようなことではなかった。信じてはいたのだろうけれども、その言葉に躊躇なく従うことは出来なかったということなんだろう。
そんなエレミヤに対して神は、「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる。わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない。またわたしに従う心を彼らに与え、わたしから離れることのないようにする。わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとし、心と思いを込めて確かに彼らをこの土地に植える。まことに、主はこう言われる。かつて、この民にこの大きな災いをくだしたが、今や、彼らに約束したとおり、あらゆる恵みを与える。この国で、人々はまた畑を買うようになる。それは今、カルデア人の手に渡って人も獣も住まない荒れ地になる、とお前たちが言っているこの国においてである。人々は銀を支払い、証書を作成して、封印をし、証人を立てて、ベニヤミン族の所領や、エルサレムの周辺、ユダの町々、山あいの町々、シェフェラの町々、ネゲブの町々で畑を買うようになる。わたしが彼らの繁栄を回復するからである」(32:37-44)と言われる。
神はエレミヤにやがて人々が畑を買うようになるという希望のある未来を約束する。その未来の希望を、今畑を買うということでみんなに見せるように、という神の命令だったのだろう。
それは将来に対する希望を持って生きるようにと言う神からのメッセージでもあるのだろうと思う。目の前にはバビロン軍が迫ってきているという危機的状況である。しかし目に見える危機にとらわれてしまうのではなく、将来の希望を胸に生きるようにという神の言葉だったのだろうと思う。
エレミヤにとって畑を買うという行為は、そんな将来の希望を先取りするようなことになったのではないかと思う。
ただ苦しい現実だけを見つめて嘆きつつ生きるのも一つの生き方であるし、見えない将来を見つめて希望を持って生きるのも一つの生き方だと思う。将来の見つめて希望を持って生きてほしい、希望を先取りして生きてほしい、神はそう願っているということなんだろうと思う。
苦しく大変なことがあるとついついそのことに目を奪われてしまうのが人間の常でもあると思う。しかしそんな私たち対しても神は語りかけてくれているのではないか。私はあなたを見捨てない、決してひとりぼっちにはしない、いつも一緒にいる、何があってもあなたの味方だ、そんな神の声を繰り返し聞いていきたいと思う。