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礼拝メッセージより
「たからもの」 2015年11月15日
聖書:エレミヤ書31章27-34節
時代
エレミヤの時代、彼らの国は北の王国イスラエルと南の王国ユダに別れ、北のイスラエルはすでに滅亡し、南のユダもバビロニアの脅威にさらされており、やがて南のユダも滅ぼされ、指導者たちはバビロンへ補囚されていくという時だった。
そのころの王はかつての契約を守らず、自分たちの先祖をエジプトから導き出した神ではない別の神々、聖書で言う偶像を礼拝していた。中には、自分達の神を信じる王もいたが、そんな王も少なく、やがて国は滅びに向かっていった。
エレミヤはその国の滅びを神から、みんなに知らせるようにと言われ、そのことを王や民に告げた。国が滅びるのは真の神に従わなかったため、つまり偶像を礼拝したため、また神の命じる貧しい者を顧みるように、という言葉に従わなかったために起こったことだ、だから悔い改めて真の神を礼拝しよう、真の神に従おうと告げた。
しかし、自分たちの国が滅びるわけがない、自分たちは特別な民族なんだからどこにも負けない、とかバビロンからだってすぐに帰ってこれるだ、というような者たちがいて、エレミヤはそんな人たちから迫害を受けることになった。聞く耳を持たない民の指導者たちは彼を抹殺しようとし、親しい友は彼を裏切り、同郷の者たちも暗殺を企てたそうだ。
そんな中で、エレミヤはバビロンへ連れて行かれた者たちに向かって神からの言葉を伝えた。このことは神がそうしたのであり70年は帰れない。これは自分たちが神に背いたために起こったことではある。しかし決して神から完全に見捨てられてしまったというわけではない。これも神の計画なのだ、だからそこでしっかり生活しなさいと勧めた。
新しい契約
そして今日の所では、契約を守らなかった民に対して、神は新しい契約を結ぶというのだ。かつて契約を守らなかった奴のことなど構ってられるか、とは言わない。
契約を守らないということは契約が破棄されることになり、そうすると両方の関係が絶たれるということになる。おまえと俺とは関係ない、ということになる。神と人としての関係が崩れたならば、そこからは自分の神とか、自分の民という関係ではなくなるということだ。しかしこの神は新しい契約を交わしてこの民との関係を持ち続けようとしているというのだ。
神と民
神と人という関係の中で私たちは生きている。神なしで生きていけるのかどうかというのは、親がなくても子が生きていけるのかということと似ているように思う。子はしだいに親から離れていく。しかし自分を全面的に受け入れてくれる、受け止めてくれる、愛してくれる、そんな関係があることで子どもは安心して親から自立していくそうだ。何かが出来るからとか、何かが優れているからとか、そんな条件付きではなく、無条件にただ親と子であるという関係があるだけで、つまり自分の子どもだからというだけで全面的に受け入れてくれる、そんな親を持っているということで子どもは安心して生活し自然と自立するそうだ。
31章20節に「エフライムはわたしのかけがえのない息子/喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに/わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り/わたしは彼を憐れまずにはいられないと/主は言われる。」とある。
神と人との関係も似ているように思う。人にとって自分を全面的に受け止めてくれる相手を持っていることはとても嬉しく安心できることだと思う。神はそういう風に私たちを根底から支えている硬い岩のようなものだと思う。その岩の上で私たちは支えられて生きていく。
そんな神と人との関係を保つために、神はこれこれこうしなさい、と掟、律法を与えられたのだろうと思う。岩の上にいるために、ここから外に行ってはいけませんよ、と言われたようなものだと思う。そしてイスラエルの民たちはその律法を守りますと誓った。神と民との関係をなくさないために、岩の上にいるために、その律法を守ると契約した。
しかしそんな神との契約をイスラエルの民は破ってしまった。命令に背いて岩の上から降りてしまったわけだ。
胸の中
だがしかし神はそんな民に向かって新しい契約を結ぼうという。新しい掟、律法を与えるという。岩の上から落ちないためだったけれど守れなかったかつての契約ではなく、新たな契約を結ぶ日が来るというのだ。
そして今度は新しい律法を胸の中に記すという。
「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と言う。
神と民、神と人という関係ができる。それが新しい契約であるという。その新しい関係を崩さないための律法を神は心に記すというのだ。いつどんな時にもその律法を私たちが忘れることがないように、ということだろう。私たちの生きることすべてに神が関わっておられるからだ。困った時に助けてくれるだけではなく、私たちの存在の根底を神が支えておられるからだ。
そしてその心に記された律法とは、神の声を聞きなさい、神の言葉を聞きなさい、ということに尽きるのではないかと思う。
私たちは心の中にいろんな言葉を記されているのだと思う。小さい頃から親に聞かされてきた言葉もある。お前は良い子だ、お前はできる、という言葉もある。お前はいつも駄目だ、ほらやっぱりできなかった、という言葉もある。私たちは私たちの心の中に記されているいろんな言葉に支配されてるというか影響されて生きていると思う。
僕は話し合いとか会議とは大嫌いだ。というかむしろ恐れている。自分の駄目さを指摘されるんじゃないかと思ったり、何も言われなくても他の人の立派な様を見ることで自分の不甲斐なさを思い知らされることを怖れている。そうじゃないだろうとか、それは違う、と言われたら途端に落ち込んでしまう。間違ってることが分かったら間違ってたんだと思えばいいし、そこから修正すればいい話だと理屈では思っても、間違うこと自体がとても恥ずかしいことだとか、そんな自分は駄目なんだという気持ちが強くて、なかなか素直に間違いを認められない。一つの間違いで自分を責める、そして間違った自分を認めない、そんな誰かの言葉が心の中に記されているんじゃないかと思う。
成績が良かったら褒められたり、言いつけを守って良い子にしていたら、お土産を貰えるんじゃないか、そんな考え方が私たちの根っこにもあるんじゃないかと思う。神に対しても、言いつけを守っていたら、悪いことをしなければ、神は私を愛してくれ、逆に従順でなかったり、言いつけを守らなかったら愛してはくれない、知らん顔をされるような気持ちがある。こんなに大変なのは、こんなに苦しいのは自分の何が悪かったのだろうか、信仰が足りないからだろうか、祈りが足りないからだろうか、そんな風に思いがちだ。
でもそれはここで言う古い契約の考え方なんじゃないかと思う。これもできてない、あれもできていない、ここが悪い、あそこも悪い、そうやって私たちは自分の駄目な所を見つけては嘆いてばかりいる。
そんな私たちを責める言葉や元気をなくす言葉が私たちの心の中からもいっぱい聞こえてくる。ちょっと何かあると元気もなくしたり、挫折したりした時にはそれこそ轟音となって聞こえてくる。
僕は今でも何か失敗するとそのことをずっとひきずってしまう。変なプライドがあるんだと思うけれど、自分が失敗することを自分自身が赦せないような認められないようなところがある。失敗しても平気になりたいと思うわけではないが、失敗したとしても次からしないようにどうすればいいかと前向きに考えればいいのに、失敗した自分は駄目だ、なんで失敗したんだ、とずっとそれを引き摺って、元気も気力もなくして、その日やらないといけないことも出来なくなったりしてしまう。
そんな風に間違いも失敗もなくした人間こそ価値があるような思いがどこかにあって、失敗した途端に価値がなくなったような気分になってしまっているんだろうなと思う。
たからもの
昔から価値ってなんだろうと思っている。宝石に価値があるといわれるけれど、どうしてなのかと思う。僕にとっては宝石自体に価値を感じない。高い金で売れるということでは価値があるのだろうけれど、宝石を身に着けていることで嬉しいというような意味での価値は感じない。勿論宝石を身に着けることに喜びを感じる人もいるわけで、そうすると価値というものは相手があることで生まれたり生まれなかったりするんじゃないかと思う。相手にとって価値があると思える時には価値があり、そう思えない時には価値はないということだろう。
人間も相手があることで価値が生まれるんじゃないかと思う。嬉しくなる相手、喜ぶ相手、愛する相手がいることで価値が生まれるんじゃないかな。私たちには私たちを愛する神がいる、そこに究極の価値があるんだと思う。だから私たちは私たち自身に傷がないこと、失敗も挫折もないことに価値があるのではなく、私たちを大事に思う相手がいること、私たちを愛する神がいること、そこに価値があるのだと思う。
神は私たちに新しい言葉を記した、と言われているような気がしている。何があってもお前が大事だ、どんな失敗しようとお前が大切だ、何も持っていなくてもお前を愛している、お前は私の子供だからだ、そんな言葉を神さまは私たちの心に記してくれているのだと思う。神に大切に思われている、宝物のように思われている、そこに私たちの価値があるのだと思う。
そしてその神の言葉を聞いていくこと、それこそがエレミヤの告げる新しい契約なのだと思う。新しい契約とは、神の側は人間を愛し続けること、そして人間の側はその声を聞き続けるということ、そんな契約なのではないかなと思う。こんな身勝手なことを契約と言っていいのかと心配する位だ。
相変わらず失敗したり挫折したりしては落ち込んでしまう毎日だ。でもそんな時でも、そんな時こそ、お前が大事なんだ、お前が大切なんだ、お前は私の大事な子供なんだ、お前は宝物なんだ、そんな神の言葉をしっかりと聞いていきたいと思う。
神はその言葉を私たちの心の中に記していると言われている。心の中に書かれているその言葉を、いつでも、どこにいても繰り返し繰り返し聞いていきたいと思う。