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礼拝メッセージより
「踏みしめて」 2015年11月8日
聖書:エレミヤ書28章1-17節
メッセージ
礼拝のメッセージが神の言葉なのかどうか、今日の聖書を読みながら今更ながらに心許なくなっている。傷つき疲れている人に慰めとなる、元気になる言葉を伝えたいと思っているけれど、ただ耳障りの良い言葉になっているだけなんじゃないかと心配になっている。
バビロン補囚
紀元前609年バビロンはアッシリアを滅ぼし、前605年にはエジプトにも勝利し、パレスチナ地方はバビロンの支配下に入る。南ユダ王国も一度はバビロンに服従を誓うが、やがて反乱を起こし、逆に返り討ちに遭い、前597年エルサレムは占領され、ヨヤキン王や多くの指導者たちは、神殿財宝と共にバビロンに強制連行される。これが第一次バビロン捕囚で、数万人が連行されたと言われる。
バビロンは次の王としてゼデキヤを擁立し、エルサレム神殿も破壊されなかった。新しく王となったゼデキヤは当初はバビロン王に使者を送り、自らもバビロンを訪問して忠誠を示すが、国内ではバビロンへの服従を貫く和平派と、バビロンからの独立を目指す交戦派の対立が続き、次第に交戦派の力が強くなっていく。
預言
丁度その頃の出来事。27章を見ると、エドム、モアブ、アンモン、ティルス、シドンという近隣の国の使者たちがエルサレムにやってきていた。バビロニアに占領されてしまった国々が結束してバビロニアに対抗しようという話しをしていたのだろう。その時にエレミヤは軛の横木と綱をつくって自分の首にはめて、バビロンへ服従するように、そうすれば「わたしはその国民を国土に残す、と主は言われる。そして耕作をさせ、そこに住まわせる」という神の言葉を告げる。そしてゼデキヤにも「首を差し出して、バビロンの王の軛を負い、彼とその民に仕えよ。そうすれば命を保つことができる」という言葉を告げる。
当時はユダの周辺諸国に反バビロン同盟結成の動きがあったそうだ。エジプトの力を頼りに、バビロンに対抗しようとする好戦派が勢力を増していたようだ。しかしエレミヤはそんな動きに冷や水をかけるかのように、バビロンへ服従することが神の意志であると告げる。
ハナンヤ
そして今日の28章では、預言者ハナンヤが登場しエレミヤと対決する。
ハナンヤはバビロンから、神殿の祭具も補囚にされている民も2年の内に帰ってくる、主がバビロンの軛を打ち砕くからだ、と言った。
しかしエレミヤはそれに対して、「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように。だが、わたしがあなたと民すべての耳に告げるこの言葉をよく聞け。あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」と言った。
主がバビロンから神殿の祭具や補囚の民が戻してくれることを自分も望んでいる。本当にそうなればどんなにいいだろうか。しかし昔の預言者たちは戦争や災害や疫病を預言した。しかし平和の預言者は、それが成就して初めて本物だと分かると言っているみたいだ。要するに自分の国に平和が来る、というような聞こえの言い預言者はあまりあてにはならないということか。しかし平和にしろ戦争にしろ、預言者が本物かどうかはそれが実現するかどうかによってしか分からないという気がするけれど。
それを聞いたハナンヤはエレミヤの首から軛をはずして打ち砕いたという。ハナンヤは芸人のように大衆受けをすることをするのが得意だったんだろうなと思う。自分の言葉を否定するエレミヤに対して、にっこり笑ってエレミヤの軛をはずして砕いて見せて、主は二年のうちにバビロンのネブカドネツァルの軛を打ち砕く、と言ったんじゃないかな。そんなショーをいうのかパフォーマンスをみんなに見せたんだろうなと思う。最初は、エレミヤからお前の預言は当てにできない、信用できないと言われたことで憤慨してエレミヤの軛を砕いたのかなと思ったけれど、そうじゃないような気がしてきた。内心では憤慨してても一見落ち着いたパフォーマンスを見せたんだろうなと思う。群衆は自分の意見を否定するエレミヤに対してうまく切り返すハナンヤに対して拍手喝采したんじゃないのかなを想像する。
エレミヤは熱狂的になる雰囲気を嫌ってのだろう、一度そこを去り改めてハナンヤを訪れて主の言葉を告げた。それは、今度は木の軛ではなく鉄の軛をはめてバビロン王ネブカドネツァルに仕えさせる、お前は主に逆らって語ったから今年のうちに死ぬ、ということだった。ハナンヤはその年の7月に死んだ、なんてことが書かれている。二人の対決が5月にあったと書かれているので、ハナンヤはその後2ヶ月程で死んだということになる。
本物
私たちは結果を知っているのでエレミヤこそが本物の預言者だと知っているう。しかし預言者が二人登場して、その二人が全く反対のことを語っているとき、そのどっちが正しいのか、どちらが本物なのか、どこでどう判断すればいいんだろうか。
そもそも預言者ってどうやって神の言葉を聞くのだろうか。耳に聞こえてくるのだろうか。それとも心の中に湧いてくるような感じなのだろうか。聖書を読むと、まるで電話でもかかってくるかのように神の言葉が聞こえてきたような書き方をしているけれど、実際はどうなんだろうか。そして預言者自身、それが神からの言葉なんだということを確信できるのだろうか。きっとできているからみんなに告げるのだとは思うけれど、自分の勝手な思いこみではなく神からのメッセージであるということを、どうやって判断するんだろうか。
それは預言者自身の問題でもあるわけだけれど、ではそんな預言者と称する人たちの言葉を聞く者にとっては、どれが本物であるのかということをどこでどう判断すればいいんだろうか。
踏みしめて
どういう言葉が神の言葉なのか、本物の神の言葉なのか、やっぱりよく分からない。
でも、苦しい現実を見ないようにさせて、あるいは忘れさせて、空元気にさせるものは神の言葉ではないような気がする。むしろ苦しい現実をしっかりつ見つめ、その中を生き抜く力を与える、それこそが神の言葉なんだろうと思う。苦しい厳しい現実の中にも神の守りや導きがあることを思い起こさせる、それこそが神の言葉ではないかと思う。
しかしやっぱり苦しい現実を見ることはつらいことでもある。苦しい現実を受け止めることもまた苦しいことだ。自分の駄目さやいやらしさ、過去の失敗や挫折を、しっかりと見つめ受け止めることは大変苦しいことでもある。
しかし、そのお前を私は見つめている、そのお前をいつも共にいる、そのお前が大切だ、そんな神の言葉が聖書にはあふれているように思う。お前には今を生きる力がある、進む力がある、だからしっかりと踏ん張って生きなさい、そして次の一歩をしっかりと踏み出しなさい、私がいつも共にいるのだから、決してひとりぼっちではないのだから、そんな神の言葉が聞こえてくるようだ。
ただ天を見上げるのではなく、大地をしっかりと踏みしめて、自分自身をしっかりと見つめて、現実をしっかりと受け止めて、生きなさい。そこに神がいる、そのあなたと共にいる、それこそが神の言葉なんじゃないかと思う。