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礼拝メッセージより
「見捨てない」 2015年11月1日
聖書:エレミヤ書24章1-10節
いちじく
前597年、エルサレムはバビロンに制圧され、ヨヤキン王とその家族、貴族、軍人、祭司等の指導者たちは捕囚としてバビロンに連れ行かれた。列王記下に第1回バビロン捕囚と言われる出来事について書かれている。
列王記下24:15-17「彼(ネブカドネザル)はヨヤキンを捕囚としてバビロンに連れ去り、その王の母、王妃たち、宦官たち、国の有力者たちも、捕囚としてエルサレムからバビロンに行かせた。バビロンの王はすべての軍人七千人、職人と鍛冶千人、勇敢な戦士全員を、捕囚としてバビロンに連れて行った。バビロンの王はヨヤキンに代えて、そのおじマタンヤを王とし、その名をゼデキヤと改めさせた。」
このゼデキヤ王の時代にエレミヤは主から良いいちじくと悪いいちじくの幻を示された。良いいちじくはカルデア人の国へ送ったユダの補囚の民、つまりバビロンへ捕囚された民で、彼らはやがて帰ってきてわたしの民となるという。一方悪いいちじくはユダに残っている者たちで、彼らを滅ぼし尽くすという。そんな幻を見せられた。
励まし
補囚されていった人達はどんな風に思っていたのだろうか。故郷を離れて見知らぬ土地へ移住しなければいけない。しかもいつ帰れるとも分からない。どうして私たちがこんな苦しい目に遭わないといけないのか、私たちが一体何をしたからこんな罰を受けねばならないのかと思ったに違いないだろうと思う。神から与えられた罰だ、神に見放された所為なのだと思ったとしても不思議ではないと思う。では一体自分達の何が間違っていたから、何が悪かったからこんな罰を受けるのか、苦しい境遇であるほどそんなことを一所懸命に考えたのではないかと思う。自暴自棄になって荒れた生活を送ったり、絶望して何をする気力もおこらないなんてことにもなりかねない状況だったのではないかと思う。先行きが見えない時というのは精神的にも不安定になってしまう。そういう面では人間てのは弱い生き物だと思う。
そういう人達にとっては今日のエレミヤに伝えられた神の言葉はすごい励ましになったことだろうと思う。
警告
一方補囚されずユダに残された民は、自分達は神に守られたと思っていたようだ。この時には神殿も残っていて、それも神の守りのある証拠であると思っていたようだ。
その後補囚された人達も近いうちに帰ってくると言う預言者も現れて、ユダに残った人達は、自分達の国はそのままで大丈夫だからバビロニアに反旗を翻そうと考えるグループが台頭してきて、ゼデキヤもその流れにのってバビロニアに反逆して返り討ちにあい、やがて神殿も壊されてしまうことになる。
残された人達はエレミヤの警告を聞こうとしなかったために、やがて告げられた言葉のように滅び尽くされる道を進んでしまうことになる。
違い
補囚された者と残された者の違いは、自分達のことを省みようとしたかしなかったかということに尽きるのではないかと思う。補囚されるという境遇では省みるしかないという気もするけれど、やはりそこでそれまでの自分達のことを真剣に省みる機会となった、省みる機会としたことでそこから再出発できたんだろうなと思う。
見えるもの
故郷を追われ見知らぬ土地へ移住させられるという屈辱を味わうという苦しい体験だったろうと思う。幸せな生活と言われるようなものとは真逆な境遇だったろう。惨めな思いで移住していったんじゃないかと思う。
しかしそんな民に対して神は、あなたたちは良いいちじくだと言ったわけだ。一見まったく不幸せな民に対してあなたたちこそ良いいちじくだ、私はそう見ていると言っているのだ。いかにも神に見捨てられてしまったかのような民に対して、あなたたちは私の民だ、わたしはあなたたちの神となるというのだ。
幸せとは何なのだろうかと思う。良い学校を出て、良い会社に就職して、良い相手と結婚して、良い子供を持って、良い家と良い車と、良い物をいっぱいもつことを持つことが幸せなんだろうか。そうやって何もかも順調にいけば幸せなのかもしれない。しかしそんなに何でも順調にいくなんてことはほとんどない。むしろ順調にいかないことの方がよっぽど多い。思うようにいかないのが人生なのではないかと思う。
そして順調にいかなくて、挫折して、失敗して、落ちこぼれることは駄目な人生のように思う。自分のこんな失敗だらけの人生は駄目な人生のように思う。駄目な人生から救い出して欲しい、成功した人生に引き上げて欲しいと神に求めるけれど、それも叶わない。どうせ自分の人生駄目なんだと諦めるしかないような気になる。
バビロンへ補囚された人達はまさにそんな思いだったんじゃないかと思う。かつて夢見ていたバラ色の人生は全部吹っ飛んでしまって夢も希望もなくしていたんじゃないか、もうどうにでもなれと思っていたんじゃないかと思う。
しかし神はそんな民に向かって、そしてそんな私たちに向かって、あなたたちは良いいちじくだと言われているんだと思う。
自分の駄目さを嘆き、自分の境遇を呪っている、そんなあなたたちこそ良いいちじくだと言われているんだと思う。
神は苦しみ悩む者、絶望し嘆く者の傍らにいてくれているのだと思う。この聖書の神は、自信満々にわがままに生きている人のことは、ちょっといい加減にしておけよと懲らしめるけれど、逆に打ちのめされて、打ちひしがれている者を放ってはおけない性格なのではないかと思う。
私はあなたを見捨てはしない、決して見捨てはしない、苦しむ私たちに向かっても神はそう言われているように思う。
YNWA
昔スーパーサッカーという番組があった。見えにくいテレビで夜中に見ていた。中国放送だったと思うけれど、愛媛の実家からは広島県側が山の陰になっていたためになかなか見えなかった。その番組でリバプールというチームを知って、それ以来好きになった。そのリバプールがホームで試合をするときに、スタジアム全体で「You'll never walk alone」という歌を歌う。
When you walk through a storm
Hold your head up high
And don't be afraid of the dark
At the end of the storm
There's a golden sky
And the sweet silver song of a lark
Walk on, through the wind
Walk on, through the rain
Though your dreams be tossed and blown
Walk on, walk on, with hope in your heart
And you'll never walk alone
You'll never walk alone
たとえ嵐の中でも
しっかりと前を向こう
暗闇も恐れないで
嵐の後には
輝く青空と
さわやかなヒバリの歌が待っている
歩き続けよう、風の中を
歩き続けよう、雨の中も
あなたの夢が揺さぶられ、破れても
歩き続けよう、心に希望を持って
そう、君はひとりぼっちじゃない
君はひとりぼっちじゃないんだ
見捨てない
これは私たちに対する神の言葉そのもののように思う。何があっても私がついている、だからお前は決してひとりぼっちにはならないんだ、私はお前を見捨てないんだから、そんな神の言葉が聞こえるようだ。
バビロンへ補囚された民を良いいちじくと呼ぶ神の声にも通じるものがあると思う。
「すべての子どもたちには、少しの助け、少しの希望、そして彼らを信じてくれるだれかが必要です。」(マジック・ジョンソン)という言葉を知った。
私たちにも信じてくれるだれかが必要だ。何より神は私たちを信じてくれているのではないかと思う。私たちが神を信じるよりも、神の方が私たちを信じてくれているのではないかと思う。
決してひとりぼっちにしない、決して見捨てない、そんな神に私たちは支えられて生きている。嬉しい、ありがたいことだ。