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礼拝メッセージより
「それでも」 2015年10月25日
聖書:エレミヤ書20章7-9節
語ること
昔釧路教会の礼拝で、詳しくは覚えていないけれど、ちょっと厳しい内容が書かれた聖書から、教会に対しても厳しい説教をした時があった。説教の内容も覚えていないけれど礼拝が終わって一人の教会員から、語る先生も苦しそうでしたねと言われたことをよく覚えている。
大事なことだとか、正しいことだと思っていても、相手にとって厳しいことを言うのは聞く方も苦しいけれど、語る方も苦しい。聞く側が楽しい嬉しいことを語るのは気楽だけれど、聞く側も苦しい話しをするのは大変だ。苦しくても聞いてくれるならばまだいいけれど、真面目に聞いてもくれない、信じてもくれない、相手にもしてくれない、反対にお前の語ることは間違っている、おかしなことを語るんじゃない、なんてことになるとやってられないと思う。
憎まれ口
エレミヤはそんな風にまともに聞いて貰えない中で語り続けるという苦しみを味わってきたようだ。
19章を見ると主はエレミヤに、エルサレムの住民に対し、他の神々を拝み主に従わなかったために、壺を砕くように都を砕く、災いをもたらすと語るように言った。
20章ではそんなエレミヤの詞を聞いた主の神殿の最高監督者である祭司パシュフルはエレミヤを鞭で打って一晩拘留する。しかし翌日解放されたエレミヤはパシュフルに、お前の名前は恐怖が四方から迫ると呼ばれるようになり恐怖がやってくる、ユダの人々をバビロンの王に引き渡す、お前も一族もバビロンへ行きそこで死ぬ、という主の言葉を告げる。パシュフルという名前は、周囲は安全という意味だそうだが、それが周りは恐怖という名前になるというように恐怖と災難がやってくるということのようだ。
パシュフルにとっては全く耳障りな言葉だ。エルサレムの住民にとっても面白くない話しだ。しかしエレミヤはそんな言葉を語るようにと主から示されている。
どうせならみんなが喜ぶような、みんなから褒められることを話したいと誰だって思うだろう。礼拝のメッセージだって褒められたいと思う。痛いところを突くようなことは言いたくないなあと思う。
でも預言者はそんなみんなの顔色を窺ってばかりもいられない。神から言葉を預かってしまったからにはそれに反することは言えない。しかし神の言葉だからと言っても、それを語ることで鞭打たれたり投獄されたり、みんなから非難されたりするのはやっぱり苦しいし面白くないだろう。
当時は偽預言者が耳障りのいいことを話していたらしく、そんな言葉の方を聞いてる方が誰でも嬉しいし、そっちこそ神の言葉だと信じたくなる気持ちもわかる。そんな中で、お前たちは間違っている、やがて国が滅びる、補囚されるなんて暗い話しをしろと言われてしまったエレミヤは本当に大変だっただろう。
嘆き
そんなエレミヤの嘆きが今日の聖書の箇所だ。
あんたの勝ちです、わたしは惑わされてしまいました、あんたに捕まってしまって笑いものにされて、嘲りの対象になっています。主の名など、神の言葉などもう語らないと思っても、その言葉が心の中から、骨の中から燃えあがるように湧き上がってきます。もう参りました。私の負けです。
そんな感じかな。もう疲れて嫌になってしまった、だけどやめるにやめられない、もう逃げ場がないというような状況だったようだ。
そして14節以下の所では、わたしの生まれた日は呪われよとまで言っている。生まれなかった方が良かった、なんで生まれてきたんだろう、とまで言っている。
一体どれほどの苦しみだったんだろうかと思う。辞めたいけど辞められない、自分を突き動かすような湧き上がるような思いを留めることもできないなんて。
でもエレミヤは正直だよなと思う。これが本心なんだろうなと思う。何があろうと、みんながどう思おうと、神の言葉だから淡々と語り続けますというのは格好いいけど本当なのかなと思う。エレミヤの言葉は正直な言葉だろうなと思う。疲れ果ててグーの音も出ないというような状態なんだろう。これ以上語る元気もなにもないという感じかな。
それでも
聖書教育のおはなしの最後に、「語ることに疲れ果て、弱り果てたエレミヤがいます。それでもエレミヤは、預言者として立てられているのです。」と書かれている。
なぜだかこの、それでも、という言葉にひっかかっている。
もううんざりだ、こんなこと耐えられない、神よあいつらに復讐してくれ、もう生まれてこない方がよかった、そんなことを言うエレミヤだけれど、それでもやっぱり預言者なんだ。
預言者なんていうと立派な強い人間、何があっても素直に神の言うことを聞く素直な人間のように勝手に思い込んでいるけれど、本当はそうではないということなんだろう。苦しみ悩み、時には神に文句を言いつつ、それでも預言者なのだろう。
クリスチャンは品行方正にしとかないといけないとか、人の悪口を言ってはいけないとか、教会に行っている人はいい人間じゃないといけないとか、私たちは勝手に思い込んでいるのではないか。こんなだらしない間違いだらけの自分を神は赦してはくれないと思い込んでいるのではないか。何もできない無力な無能な自分、何の役にもたてない自分を神は大事になんて思ってくれない、愛してなんてくれない、と勝手に思い込んでいるのではないか。
それでもそんな私たちを神は招いてくれている。私たちが自分自身を卑下し否定するようなことがあったとしても、疲れ果てて何もできなくなったとしても、自暴自棄になって荒れ狂ったとしても、それでもそんな私たちを神は愛してくれている。お前が大切だ、お前のことが大事なんだ、お前を愛していると言ってくれている。神はきっとそう言われている。
嘆いたり悲しんだし苦しんだりわめいたりすることもある。それでも神はそんな嘆きや悲しみや苦しみやわめきも一緒に、そんな私たちを包み込んでくれているのだと思う。私たちのいいところもだめなところも全部ひっくるめて支えてくれているのだ。だからこそ私たちは神の前で良い格好をする必要もないし見栄を張る必要もない。全部正直に神に語ればいい。それでも神は私たちを支えてくれているのだ。