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礼拝メッセージより
「嫌いだ〜」 2015年10月18日
聖書:エレミヤ書13章1-17節
麻の帯
神がエレミヤに命じたこと、それは麻の帯をユーフラテスの岩の裂け目に隠し、後日それを取り出せということ。そうするとその帯は腐っていて役にたたなかった。
麻の帯は裕福な貴族や、祭司の衣服にもが用いるものだったそうだ。王や官僚や祭司たちなどの国の指導者たちが腐敗していることを象徴している。
神はイスラエルの民が、つまり北イスラエル王国も南ユダ王国も聞き従わなかったので腐ってしまって全く役に立たない、もう捨てるしかないと言う。
かめのぶどう酒
もうひとつの命令、それはかめにぶどう酒を満たすべきと語れということだった。これは宴会など飲みの席で、酒飲みにはいくらでも酒が入るということを意味している戯れ言だろうと考えられているそうだ。意味するところはちょっとわかりにくいけれど誰もが知っている言い回しだったようだ。だから人々はそれを聞いて、そんなことを我々が知らないとでも言うのかと答えるから、この国のすべての住民を酔わせて滅ぼす、惜しみもしない、ためらいもしない、憐れみもしないで滅ぼす、と言いなさいと言った。
高ぶるな
駄目な救いようのない民、神の語る言葉を聞くこともない民、権力者が権力を笠に着て弱い人達を苦しめるような民、そんな民のことはもう滅ぼす、お前たちのことはもう惜しいとも思わない、もう滅ぼす、というようなことを伝えなさい、と神がエレミヤに言ったということだ。
しかしもう惜しくもないためらいもしないで滅ぼすと言うのであれば、そのまま何も言わないで滅ぼしてしまえばいいんじゃないかと思う。ただ憎たらしいだけなら何も言わないでそのままやっつけてしまえばいいんじゃないかと思う。
しかし神はエレミヤを通してわざわざそのことをイスラエルの民に伝えようとしている。どうしてそんなことするんだろう。本当にどうしようもないなら、全く救いようがないなら何も言わずに滅ぼしてしまえば済む話しなんじゃないかと思う。
でもそうはしないでわざわざエレミヤにそのことを伝えなさいということは、神はイスラエルの民が全く役に立たないとか、ぼろぼろだとか、救いようがないとか、滅ぼすことにためらいもないとか言いつつ、本心は全く逆なんじゃないかという気がしている。
嫌いだ〜
スネークマンショーというグループ?のCDの中に、後で音楽が流れている中で男女が会話している曲?がある。
私が嫌い?、君が嫌いだ。私のどこが嫌い?、君の全てが嫌いだ。私の顔が嫌い?、君の顔が嫌いだ。私の身体が嫌いなの?、君の身体が嫌いだ。他の誰よりも?、他の誰よりも嫌いだ。。。というように女性が嫌いかと聞くと男性が嫌いだと答える甘い会話が続くという曲?だ。
言葉は嫌いとなっているけれど、心は好きと言っているというか、好きだという気持ちを嫌いだという言葉を使っているというのが聞いていて分かる会話だ。
実際「嫌いだ」という言葉を使う方が好きだという気持ちが伝わる時がある。ただの決まり文句の「好きです」というよりも、「お前なんか嫌いだ〜」という方が気持ちが伝わることもある。
今日の聖書の中で、「わたしは惜しまず、ためらわず、憐れまず、彼らを全く滅ぼす」(14節)という言葉がある。全く本心でそう思うならそんなこと言わずに滅ぼせばいい話で、実際そうするだろうと思う。でもわざわざ預言者を遣わしてそのことを伝えているということは、それだけ惜しんでいるから、憐れんでいるからなんじゃないのかなという気がしている。
神はイスラエルの民に、そんなことしてたら滅ぼしてしまうぞと言いつつ、本当は滅ぼしたくないんだ、どうにか自分の言葉を聞いて欲いてくれ、自分の言葉を聞いて自分と一緒に生きてくれと思っているんじゃないかという気がしている。そんな熱い思いがあるからこそこういう言い方をしているんじゃないのかな。
聖書はそんな神の熱い思いが詰まって分厚いものになっている、というかその神の熱い思いを感じとった人達がまとめたものが今の聖書という形になっているのだろう。だから私たちもその神の熱い思いを感じて生きたいと思う。
神の命令だから守らないといけないからとか、こういう風に決められているからその通りにしないといけないからそうするというようなことではないだろうと思う。聖書にこう書いているからその通りにすることが大事なのではないと思う。聖書に書いてあるとおりに信じないといけないというわけではないだろうと思う。
そんなことよりも、神の思い、神の熱い思い、それを感じることこそが大事なんじゃなかろうか。お前が大事だから、お前が大切だから、お前には幸せに生きて欲しい、そのために私の声を聞いて欲しい、間違った生き方はしないで欲しい、神のそんな思いが聖書の中には詰まっているように思う。勿論聖書は神自身が書いたわけではないけれど、そんな神の熱い思いを感じとった人達がまとめたものだと思う。
17節にエレミヤの気持ちが書かれているが、これは神の気持ちでもあると思う。間違った道を進もうとしている民のことを思い涙を流しているに違いない。
そんな神の熱い思いを聖書を通して聞いていきたいと思う。お前が大切だ、お前のことを思っている、心配している、聖書はそんな神の思いに貫かれていると思う。私の話を聞かないお前なんて嫌いだ〜、滅ぼしてやる〜と、実は神は涙ながらに叫んでいるんじゃないだろうか。それほどに、神は私たちのことを真剣に思っているのだと思う。
そんな熱い思いを持って自分のことを見つめてくれている方がいるということはとても幸せなことだと思う。
この神の熱い思いをもっともっと聞いていきたいと思う。