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礼拝メッセージより
「聞いてる?」 2015年10月11日
聖書:エレミヤ書7章1-15節
時代
北イスラエル王国が滅亡してしてから100年ほど経った頃、南のユダ王国ではヨシヤ王の時代に宗教改革が行われた。それまで何代も続いた主の目に悪とされる王のあとにヨシヤ王は登場し、偶像やその祭壇をこわした。神殿には下品な形をした偶像が境内のあちこちに立っていたそうだ。
そんな偶像をこわした後、ヨシヤ王は神殿を修理することにしたが、その時に神殿の中で律法の書をみつけた。そして律法の言葉を聞いた王はびっくりし、女預言者フルダのところへ使いを送った。そうすると彼女は災いがこの国に降りかかる、他の神々を拝んだために主の怒りが注がれる、と言われる。
王はすぐにすべての民を招集し、律法の書をみんなに聞かせ、主の命令と掟を守ることを誓った。
この時から改革は急速に進んだそうだ。そして律法は儀式面では細かい所まで几帳面に守られた。表面的には立派な信仰を取り戻したかのようだった。しかしそれは表面的でしかなかったようだ。
アッシリアの衰退に乗じて国力を増したヨシヤ王はエジプトと戦って戦死し(前609年、メギドの戦い)、イスラエルはエジプトの支配下に入る。ヨシヤの子ヨアハズが即位するが、彼はエジプト王ネコにより廃され、その兄エホヤキム(ヨヤキム)がエジプトの傀儡王として立てられる。やがてバビロニアの脅威が強まってきて戦争の危機が高まってきた。人々は神殿に行き、国家の安泰を祈願していた。
主の神殿
今日の聖書はちょうどそのころの言葉だそうだ。
「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」という言葉がある。エジプトとの戦いでも神殿は無事に守られたことから、主の神殿、主の神殿と唱えれば守られるというような噂というか言い伝えというか、そういうものが広まっていたようだ。おまじないというか呪文というか、この言葉さえつぶやいておけば大丈夫だ、というようなことだったようだ。
いまわしい偶像もなくし神殿も修復した。先の戦いでも神殿は守られた。神殿さえ守っておけば、神殿さえ大事にしておけばこれからも大丈夫だと思っていたのだろう。
神と人と
そんな人々にイザヤは語る。5-6節では「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく」と言われている。
神を信じるとか神に従うというと、脇目もふらず、ひたすら神に向かって、神よ神よと言うことのように思う。しかしここで神が言われていることは、ただ神を見続けることが大事なのではなく、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さない、そのことこそが大事なことだと言われている。つまり脇目を振りながら、周りを見ながら、隣人を大事にすること、それこそが神を信じ神に従うということのようだ。
9節からのところでも、「盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。」といわれている。
普段の生活で隣人をないがしろにし、苦しめ、不正義を行っているのに、神殿に来た時だけ信心深いような振りをしても何の意味もないと言っているようだ。
別の預言者であるイザヤの言葉の中にもこのようなものがある。
1:11 お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。
1:12 こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが/誰がお前たちにこれらのものを求めたか/わたしの庭を踏み荒らす者よ。
1:13 むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など/災いを伴う集いにわたしは耐ええない。
1:14 お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。
1:15 お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を
1:16 洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ
1:17 善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。
日常生活で不正をしていたり、弱い立場の人達を見放しているとしたら、律法に定められた立派な犠牲を献げても、どれほど熱心に祈ったとしても、そんなものには目もくれない、と言っている。
イエスは一番大事な掟はなにかと尋ねられた時に、神を愛することと隣人を自分のように愛することだ、と答えたことがあった。これはエレミヤやイザヤが語っていることと通じていると思う。そして神を愛することと、人を自分のように愛することは一つのことのような気がする。コインの裏表のように切り離せない一つのことなのではないかと思う。
だから神を愛するということは隣人を愛することでもあり、隣人を愛さないで神を愛するということはありえない、のではないかと思う。
つまり信仰とは神殿に来た時だけ、祈っている時だけのことではなく、普段の生活全てで神の声を、神の御心を聞いていくことなんだと思う。
そしてその神の声は、神を愛し隣人を愛しなさいと言われている。しかしなぜそんなに隣人を愛せと言われるのだろうか。信仰とは神を信じることなのではないか、ひたすら神を見上げることこそが神に従うということではないのかという気がする。でもその神が隣人を愛することは神を愛することと同じように大切だと言う。
イエスは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)と語ったことがあった。実は神は私たちが愛し合うところにこそいるのかもしれないと思う。
私たちは神に対しても自分の思い込みや願望を持って見てしまいがちなのかもしれない。神とはこうしてくれるはずだとか、主の神殿主の神殿と唱えるように、これをしておけば言うことを聞いてくれるはずだとか、自分勝手に神のイメージを作りがちだ。そして思い違いをして、神なのにどうしてこうしてくれないのかなんて思うこともある。
だからこそ私たちは神の言葉をもっともっとじっくりと聞いていくことが大事なんだと思う。
祈る事は神に聞くことでもあると思う。私を守ってくれ、あの人を守ってくれと頼むこともあるけれど、それよりも何時も守ってくれていることを神から聞くこと、知ることが祈りなんじゃないかなと思う。そして何時も守ってくれていることを感謝し喜ぶこと、それこそが祈りなんじゃないかと思う。
しっかりとじっくりと神に聞くことが何より大事なんだと思う。聞いてる?