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礼拝メッセージより
「呼んでいる」 2015年10月4日
聖書:エレミヤ書1章1-10節
預言者
預言者ってのは言を預かる者とあるように神の言葉を預かって人々に伝える人のことだ。しかし預言者ってどうやって神の声を聞くのだろうか。人と会話するように耳から聞こえるのだろうか。それとも心の中に染みこんでくるように神の言葉が思い浮かんでくるのだろうか。
礼拝のメッセージも神が伝えてくれてそのままを話す、という風になったらいいのになと思う。そこまでいかなくても神の声が聞こえたらいいのになとよく思う。どっちにしようかと迷う時にこっちにしなさいなんて言ってくれたら迷うこともなくなるんじゃないかなんて思う。でもよく考えたら神から無茶な命令をされたらそれはちょっと困るなとも思う。できもしないようなことや絶対したくないようなことをやりなさいなんて神から言われたらどうしたらいいんだろうか。断ってもいいんだろうか。断れるんだろうか。そんなこと考えたら神の言葉は本当は聞こえない方がいいのかもしれないなんて思ったりもする。
旧約聖書の預言者が集中的に活躍したのは二つの時期。ひとつは紀元前8世紀の北イスラエルがアッシリアに滅ぼされた紀元前721年を中心とした時期。もうひとつは南ユダが滅ぼされ、バビロン補囚を過ごす紀元前587年を中心とする時期。エレミヤもちょうどこの時期にあたる。二つとも国が滅びるとき。
国が傾いていきやがて滅びる、そんな時にその原因を指摘するために、預言者が登場した。つまり、何が間違っているのかということを指摘するため、そしてその間違った道から正しい道に戻るためのどうすればいいのかということ、その言葉を神から預かって民に伝えるために預言者がいたようだ。
しかし間違いを正すのはなかなか難しい。人は誰もがそうであると思うが、自分の間違いを指摘されてその通りだとすぐ納得できない。おまえは間違っていると言われても、分かりました、と言ってすぐに正そうとする人なんてのはほとんどいない。お前は間違っている、おかしいと言われても、大概はそんなことはないと言いたくなる。何度も言われると怒りだし、そんなことを言う奴は許せない、と攻撃するようになったりする。
預言者はそうやって誰もが多かれ少なかれ民から苦しめられたそうだ。イエスもこんなことを言った。(ルカの福音書)
6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。
6:21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。
6:22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
6:23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。」
預言者とは、神の言葉を預かる者であるわけだけれど、みんなから大事にされて誉められるよりも、誰も聞きたくない耳に痛いことを伝えて嫌われることの方が多い、そんな大変な務めだったようだ。
拒否
エレミヤ書の1章はエレミヤがそんな預言者として神に立たせられた、神から呼ばれた、というか、すでにあなたは預言者なのだと告げられた箇所。
神の言葉を語るなんてのはそう簡単にはいかない。預言者がどういう立場に立つのかということもエレミヤは知っていたのだろう。みんなが聞きたくもないというようなことでも言わないといけないという立場になるということはなかなか大変なことだ。大勢の民に立ち向かって独りぼっちで語るというのはとてもしんどいことだ。
ちょっと待ってくれ、といいたくもなる。冗談じゃないよ、俺に出来るわけないよと言いたくなるだろう。むしろ預言者なんかになりたくない、そんなしんどいことはしたくないと思う気持ちになるのも当然という気がする。
若さ
この時エレミヤは何歳だったのか。20歳前後とか12歳という説もあるそうだ。とにかく誰もが若いと認める歳だったようだ。若いからできない、未熟だからできない、とエレミヤは神に答えた。
世の中のこともよく知らない若い未熟な者に大事なことは任せられない、と普通は誰もが思う。「お前のここは間違っているぞ」と言うのでも立派に人生を歩んで来た老人が言うことならみんな聞くかもしれないけれど、ただの若造がそんなこと言ってもなかなか聞いてもらえないだろう。
エレミヤが、自分は若者にすぎないから、と答えたのも当然のなりゆきだろうと思う。
モーセ
同じようになかなか神の命令になかなかウンと言わなかった人にモーセがいる。
おまえがイスラエルを率いてエジプトを脱出すると聞いてからのモーセは、わたしは何者でしょう、どうしてそんなことをしないといけないのか、と言ったのを皮切りに、神の名前を聞かれたらどう答えましょうか、みんなから主がおまえなどに現れるはずがないと言うだろうとか、わたしは口べただから、とか、だれか他の人を見つけてくれと言った。さんざん神からなだめられてやっと仕方ないからやろうか、という感じだった。
ギデオン
他にも神の呼びかけに尻込みした人が他にもいる。
士師記6章には士師と言われる人の一人であるギデオンが選ばれた時のことが書いてある。出エジプトをしたイスラエルの人たちがカナンの地を手に入れて定着した後、今度は外国から攻められるようになった、その時のリーダーとして選ばれたのが士師だった。そしてギデオンの時代はミディアン人が脅威となっていた時らしいけれど、その時主はギデオンを選ばれた。
主の使いがやってきたときのギデオンの姿がふるっている。ミディアン人に小麦を奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で隠れて小麦を打っていたのだ。敵を怖がって隠れて仕事をしていたようだ。しかも主の使いが、主はあなたとともにおられます、と言うのに対しても、なんで主が共にいるのに俺たちを見放したのか、主の驚くべき御業はどうなってしまったんですか、なんて反対に文句を言っている。
続いて主が、その偉大な力を持っていけ、おまえがイスラエルを救うんだ、わたしがおまえを遣わすと言うのに対しても、なんで俺にそんなことができるんだ、と答える。その後も、しるしを見せてくれとか供え物をするまでここを離れないでくれとか、主の使いを見てしまった死んでしまうかもしれない、とか言っている。ギデオンはいろいろな神の業を見てからもしるしを求めている。
何とも頼りないというか自信のないというか、そんな人間だったようだ。それに臆病だったのかもしれない。こんな奴に大事な仕事を任すような、それも国を救うような大事なことを任す奴はいないだろう。しかし神はそんなギデオンに任せた、そんなギデオンを選んだのだ。
共にいる
神の呼びかけ、召しはあまりに突然だ、ということみたいだ。そのための準備期間なんてあるのかないのか知らないが、確かに突然これをしろ、といった感じではある。
そんな突然の命令を聞いた若い未熟なエレミヤが躊躇したのも当然のように思う。自分がどうやってするのか、自分にどうして出来るのか、そんなの無理だ、したくない、そう思うのも当然だろう。
しかしそんな人間を、言わば若造を神は選んで大事な務めに着かせたというのだ。一体どんな基準でエレミヤを選んだのか、まるで分からない。おまえがやれと言われて、若いからできないよ、と尻込みするようなそんな人間をどうして選ぶのか皆目見当が付かない。どうしてそんなことすんのだろうか。どうしてわざわざ頼りないような自信のない人間を選ぶようなことをするのだろうか。
しかしそんなエレミヤに対して神は、わたしがあなたと共にいて必ず救い出す、と約束する。
「私は何者でしょう」と尻込みするモーセに対しても神は「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」(出エジプト3:12)と言われている。
ギデオンに対しても「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すようにうち倒すことが出来る」(士師記6:16)と言われている。
3人とも神は自分が共にいるからやりなさい、とそれぞれの務めにつくように言われている。神が共にいるからこそ神の務めを行うことが出来るということだろう。
神の召しは、神が共にいる、から始まるようだ。その人自身が何かが出来る力を持っているから任せるというのではなくて、神が共にいるからやりなさい、と言われているようだ。
呼んでいる
誰もそうかもしれないが、僕はだいたい何を頼まれても、私にはできない私にはそんな能力はない私はそんな器ではない、と答えることが多い。
教会でも、私たちの教会は人数が少ないから、年取った者ばかりだから、あれもこれもできません、という話しになりがちだ。でもそんな時ってのは、大層立派なかっこいいことをしようとしていたり、どこかよその教会と同じことをしないといけないように思っているんじゃないかと思う。あるいは面倒なことはしたくないとか、失敗したらどうしようとかいう考えの方が先に立つのではないか。
でもそんな私たちに対しても神は呼びかけておられるのではないかと思う。預言者ではないかもしれないが、神の使いとなるように、神の業を行う者となるように神の手足としてなるように、と私たちもを呼んでいるのではないかと思う。
私たちは神さまからどんなことをしなさいと言われているのだろうか。あるいはそれは、ちょっと待ってくれ、そんなことできないよと思うようなとても大きなこともあるだろうし、あるいは分かりましたと二つ返事でできるような小さなこともあるだろう。どっちにしても、神さまが自分に何をしなさいと言われているのか、それをじっくりと聞いていくことが大切なのだと思う。
神は、私はあなたと共にいる、だからやりなさい、と言われている。神は私たちに対しても、私の働きを一緒に担ってほしい、私と一緒に生きてほしいと呼んでいるのではないか。