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礼拝メッセージより
「お任せ」 2015年9月27日
聖書:出エジプト記35章4-29節
幕屋
民が幕屋を作るために自発のささげ物をしたということが今日のところには書かれている。ではどうして自発のささげものをするようになったのかというと、神がモーセを通して幕屋を作りなさいといわれたからだった。
そもそも幕屋を作れという命令はモーセがシナイ山で十戒などの戒めを聞き、民が神の戒めを守りますと約束した後、戒めと教えを記した石の板を授けるからということで、モーセがまた山に登った時に神からモーセに語られたことだった。
しかしモーセが山にいる間に、イスラエルの人たちはモーセがなかなかシナイ山から戻ってこないので、金の子牛を作ってそれを神として拝んでいた。
モーセは、幕屋をどう作るかということを民に伝える前に民が神の命令に背いてしまったために、神になんとか赦して欲しいと懇願することになった。そしてどうにか赦して貰い、そこで改めて神からの幕屋の作り方を民に伝えることになったということのようだ。
35章〜40章に具体的な作り方などが載っているが、実は25章〜31章までとほとんど同じ内容になっているそうだ。順番が入れ代わったりはしているけれど、25章〜31章までで神がモーセに語ったことを、35章からはモーセが民に語ったということのようだ。
この命令の最初から、心からささげようとする者は、これこれのものを持ってきなさいと言われている。これは主がモーセに語られた時にもそのように言われている。(25章2節)
神は最初から、自発的なささげ物によって幕屋を作るようにと言われている。神の命令だからということでいやでも出せ、おまえの割り当てはこれだけだからなんとしても出せ、という風には言っていない。
そんな風に自発的なささげ物に頼っていて大丈夫なのかと思ってしまう。しかしイスラエルの人たちはその自発のささげ物、随意のささげ物をどんどんしたというのだ。36章には、そのささげ物が充分にあったので、もうしなくていいとモーセが言ったということが書かれている。
幕屋
幕屋とは神との接点のようだ。神はシナイ山でモーセに語り、戒めを告げ、石の板を与えた。しかし幕屋を作るということは、これからはシナイ山ではなく幕屋で神との繋がりを持つ、神との繋がりを確認するということになる。それまでは遠い山の上でしか出会うことのなかった神と、これからは自分たちのすぐそばで出会うことができるようになる、ということだ。
モーセがシナイ山に行っている間に、金の子牛を作り、それを神として礼拝するという、神の戒めに背いたことをした民であった。それはモーセがいなくなったから、もう生きているかどうかも分からないから、もっと分かりやすい目に見える神を自分たちで作ろうということだったのかなと思う。しかしそれは、自分たちをエジプトでの奴隷生活から解放してくれて、エジプトから救い出してくれた主を忘れ、主の導きを無碍にすることだった。そのことを神に怒られ、シナイ山から帰ったモーセに烈火の如く怒られた。案外怒られることでこれこそ神だと思ったのかもしれない。それまで神なんて適当に牛の象でも何でも、自分達の都合のいいように作っておけばそれが神になると思っていたんじゃないかと思う。ところがそのことを猛烈に怒られることで本当に神はいるんだ、神は自分達が自分達の都合で勝手に作れるようなものじゃないんだとその時分かったんじゃないかという気もする。そこでイスラエルの民は改めて主を見上げて、主の大切さを確認したのではないかと思う。
しかしその後、改めて幕屋を作れと言う命令を主から聞いた。それは自分たちが主の命令に背いて金の子牛を神として礼拝したという間違いを赦されたことを知り、でもそんな自分たちと主がいつも共にいてくれようとしていることを知ることにもなったのだろう。だから彼らは自ら献げ物をもってきたんじゃないかなと思う。
ささげ物
そのささげ物には幕屋を作るための材料となるものをささげる人もいたし、知恵をささげる人もいた。知恵というのは、ものの作り方とか、作る技術というような意味のようだ。兎に角自分の持っているものを、品物であったり知識であったり技術であったり、それぞれに持っているものを自発的にささげることによって、この幕屋はできあがってきた。
ただ神の命令だから、これはあなたの割り当てだからということで供出したわけではなかった。だからきっと材料をささげた人にしても、知恵をささげた人にしても、自分たちの幕屋なのだという意識がもてたんじゃないかと思う。自分たちの大事な幕屋だ、という意識は強かったんだろうと思う。誰かに作ってもらって与えられた訳ではなく、自分たちの持っているもので作ったということで、きっとその分、神との繋がりも強くなっていったんじゃないかと想像する。
イエス・キリストが後に、「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」なんてことを言ったことがあったけれど、自発的に献げたところには心があるのだと思う。
礼拝
新約聖書にこんな言葉がある。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」ローマの信徒への手紙12:1
新約聖書でもささげなさいと言われている。そしてささげることが礼拝なのだと言われている。しかもここでは自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとしてささげなさい、と言われている。自分自身をささげなさいと言われている。自分の持っているもの、それは献金とか、自分の技術や才能などをささげるということでもあるけれども、基本的には自分自身を、自分の全部をささげるということ、それが礼拝なのだといわれている。
献げるというと自分のものから切り離して自分のものでなくして差し出すというイメージだけれど、自分自身を献げるとなると自分から切り離すことはできない。自分自身を献げるということは、結局は自分を全部神に任せるということなんじゃないかと思う。
人は誰でも自分ひとりの力で生きていけるわけではない。食料も水も空気も全部自分の力で手に入れろなんていわれても出来るわけがない。どこかで何かに信頼しながら生きている。明日も地球はあって空気も水もあると信じている。しかし人生にはいろんな心配ごとがある。そして心配を自分だけでかかえては、その心配に押しつぶされそうになったり、眠れない夜を過ごしたりすることもある。
しかしそんな心配を誰かに任せることができるならば、支えてくれる誰かを信じることができれば、その苦しさは随分と軽くなる。心配もなにかも含めて自分自身を神に献げなさい、と聖書は言っているのだと思う。私たちの人生全てを神に任せなさいということなんだろうと思う。
最終的には神にしか任せられないと思うけれど、神に全部を託すことで、私たちは自分はすべきことをやっていけばいいのだと思う。
神が人生の全てを支えてくれていると信じることで、余計な心配をしないで、自分の力を十分に発揮できるのだと思う。自分自身を献げるということは、いつも神に支えられ、神と共に生きていくということだろうと思う。
神が何でもしてくれるから自分は何もしないでいいというようなことではなく、逆に神がすべてを支えてくれているから、安心して自分のすべきことをやっていけるのだと思う。
聖書の告げる神は、私たちの一部だけではなく全部を、私たちの人生全部を、生きることも死ぬことも含めて全部を託してしまうことができる、そんな神なのだ。
そして人生の全てを支えてくれるそんな神だから、私たちは私たちの全てを、自分自身を献げることができる。
自分自身を献げるというのは、献げるというよりも任せるという感じなんだろうなと思う。心配も嘆きも後悔も、全部ひっくるめて自分自身をまるごと神に献げて、神に任せて、神と共に生きなさい、聖書は私たちにもそう告げているのだろう。