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礼拝メッセージより
「信じたい」 2015年9月6日
聖書:出エジプト記32章1-14節
終わり
子どもの頃から宇宙に興味があって、今でも宇宙に関するテレビを録画してよく見ている。先日は初の宇宙飛行士になったガガーリンの話しをしている番組を見た。人類初の宇宙飛行士がどうやって選ばれたかとか、実はガガーリンは遺書を書いていた、宇宙から帰還する時には宇宙船から脱出して別々に地上に降りた、なんていう初めて知る話しがいっぱいあった。
その話しの中で、宇宙に行くための訓練の一つに一人きりで時間を過ごすというのがあった。外からの音が一切聞こえない小さなコンテナのような部屋に入って一人きりの時間を過ごすという訓練があった。その訓練は恐ろしいと思ったのだが、その訓練はいつ終わるかということを飛行士に知らせないということだった。いつ終わるともしれないひとりぼっちの時間を何日も過ごすという訓練だった。
終わりが分かっていれば多少なりとも我慢もできるかもしれないけれど、何時終わるとも知れずひとりだけの時間を過ごすというのはどれほど大変だろうか、と想像するだけで恐いなと思った。
モーセ
イスラエルの人々がエジプトを脱出してシナイ山まで来た時、神は十戒やさまざまな律法を告げた。そしてイスラエルの人々と契約を結んだ。イスラエルの人々は「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と約束した。その後モーセは神の教えと戒めを記した石の板を受け取るために山へ登って行った。モーセは40日間山にいて、主から幕屋の作り方や、献げ物をどういう風にするかなどといった指示を受ける。そして掟を書いた2枚の石の板を授かった。
ここに来るまで、モーセが人々を導いてきた。何か問題があればモーセに訴え、それをモーセが神に取り次いでいた。しかしモーセがいない間は、何か訴えがあればアロンとフルに申し出るようにと言われていた。
そこでアロンはみんなの要求に応じて、みんなが身に着けている金の耳輪を集めて溶かして、和解雄牛の鋳像を造った。すると民は、「これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。そして祭壇を造って献げ物をささげて飲み食いして戯れた。
神はこれを見て怒ってしまって、イスラエルの民を滅ぼし尽くすと言う。これを聞いたモーセが神をなだめたので、神は民に下すと言っていた災いを思い直した。
その後宿営に戻ってきたモーセは、若い雄牛の像と踊りを見て怒り、神からもらった掟を書いた石の板をわり、雄牛の像を火で焼いて粉々に砕いて水の上にまき散らして、イスラエルの人々に飲ませた、なんてことが聖書に書かれている。
待つこと
イスラエルの人たちはどうして子牛の像を造ったのだろうか。モーセの帰りを待てなかったということなんだろうか。モーセが帰らないからといって、どうして金の子牛を作ったのだろうか。
実はもともとモーセをそれほどあてにしてなく、信頼もしてなかったから、すぐに子牛の像を造ったのかもしれないというような気がしてきた。そうだとするとアロンも同じようにそれほどモーセをあてにはしていないのかもしれないなんて勘ぐりたくなる。そしてそれは何より、ヤーウェの神こそが神なのだ、この神が自分たちを救ってくれたのだ、という思いが民の中にはそもそもなかったのではないかと思う。
民には神は見えないし、神の声も聞こえない。いつもモーセを通して神の言葉を聞いているだけだった。モーセにとっては神は直接声を聞くという近い位置にいる。しかし民にとってはモーセを通して聞くという間接的な関係であって、比較的遠い関係であった。だからこれこそが本物の神、何がなんでもこの神を信じる、何が何でもモーセの帰りを待つ、という思いにはなりにくかったのだろうと思う。モーセは先祖の神、ヤーウェの神が救ってくれたと言うけれど本当にそうなのだろうか、という気持ちがずっとあったのかもしれないと思う。
だからこれからは見えないヤーウェの神ではなく、金の子牛という見える神が欲しかったのだろうと思う。モーセがいなくなればヤーウェとのつながりもなくなるし、これからは子牛の神に守ってもらおうというような軽い気持ちだったのではないかと思う。
神はこんな民に怒りを発して民に災いを下そうとする。しかしモーセがそれをなだめて災いを思い直したという。そこでどうにかイスラエル人が滅ぼされることはなくなった。しかし神が怒って、それを思い返したのも山の上の話しである。民はそんなことがあったことも知らずに子牛の像の前で踊っていたわけだ。
民が自分たちの間違いを知ったのは、モーセが帰ってきて子牛の像を砕いて水の上にまき散らして自分たちに飲ませられたことによってだ。そのあとモーセがレビの子らによって三千人が殺されることになったなんてことも書かれている。そこで初めて自分たちがとんでもない間違いを犯したことをやっていたことを知ったのだろう。
信じたい
民にとってはやはり神は遠い存在である。だから神を信じるということは大変なことなんだろうと思う。モーセの言葉を信じるしかない。モーセの言葉を神の言葉だと信じるしかない。モーセを通して神とつながっていたわけで、そのモーセがいなくなると神との繋がりもなくなってしまうような気持ちだったのだろう。
民はモーセの帰りを待てなかった。それは待っている間が辛い状況だったからだろう。宇宙飛行士の訓練のように、今の状況が早く終わって欲しいという辛い状況だからこそ待ちきれなくなるんだと思う。イスラエルの民はモーセがいないという状況が辛かったんだと思う。モーセがいないと神との繋がりがなくなるわけで、信じるものがなくなるような思いだったのではないかと思う。兎に角信じるものが欲しい、信じる対象が欲しい、それがないと不安で不安で仕方なかったんじゃないかと思う。つまり信じたかったんだと思う。何でもいいから信じたかったんじゃないか。そして近隣の民がそうしているように自分達も金の子牛を作って信じようとしたんではないかと思う。信じる相手を持つという安心感を手に入れたかったんじゃないかと思う。
人間には信じる対象が必要なのだと思う。それは人間が生まれ持った性でもあるようい思う。でも今日の聖書が伝えているのは、ただ信じる気持ちを自分が持っていればいいということだけではなく、信じる相手との関係が大事なのだということだと思う。イワシの頭でも何でも信じればいいというわけではないと思う。
人間同士の友達という関係でも、生きた人間同士の関係が大切なのであって、どんなに好きだと思っていても相手がマネキンでは友達にはなれない。
信じる気持ち、信じる思いは大事だと思うけれど、相手がどうなのか、信じるべき相手なのかどうかはとても大事なことだと思う。
イスラエルの民は信じたいという思いを持ち続けていた、信じる相手がいないことに耐えられなかったのではないかと思う。そういう点では私たちよりよほど信仰的なような気がする。しかし彼らは自分達が信じられればということで神でないものを神にしようとした。動かない、命のないもの、そして自分達が作り出せるものを神としようとした、そこに間違いがあった。
イスラエルの民は金の子牛を作った。しかし金の子牛は動かない。命もない。自分達に語りかけることもない。偶像は造れるけれど、その言葉を聞くことはできないのだ。
しかしヤハウェ神は民に語りかける。民を愛し憐れむ、そんな神だ。直接神の声を聞くことができなくてそれが悩ましいところだ。しかし私たちの神は私たちを見つめ語りかけてくれる、そんな神だ。ただ私たちが信じるという思いを一方的にぶつける相手ではない。私たちの信仰心だけでつながっているような関係ではない。むしろ神からの導きや呼び掛けがあり、それに私たちが応える、神と私たちはそういう関係で繋がっている。
神として信じるという人間側の思いだけが重要ではなく、むしろそれよりも神からの呼び掛け、愛、憐れみこそが重要なのだと思う。そんな神だからこそ信じていきたいと思う。そんな神の呼び掛けに、愛に応えて生きたいと思う。