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礼拝メッセージより
「道しるべ」 2015年8月30日
聖書:出エジプト記20章1-17節
ねばならない
クリスチャンになると日曜日には礼拝に行かなければいけないし、献金もしなければいけないし、聖書も読まなければいけないし、お祈りもしないといけない、というような話を聞くことがある。なのになかなかそれができない自分は落ちこぼれのクリスチャンだ、というようなことも聞く。そうなのだろうか。
戒め
確かに聖書には戒めが色々と出てくる。十戒なんてのはその総元締めみたいなものだろう。しかし色々と出てくる戒めは人を縛り付けるためにあるわけではないと思うのだ。十戒とは言われて小見出しにもそう書いてあるし、そして戒めのような言葉があるけれども、本文には戒めという言葉はない。1節にも、神はこれらすべての言葉を告げられた、とあって、戒めを告げられたとは書かれていない。
また「してはならない」と訳されている言葉も、「するはずがない」というふうにも訳すことが出来るような言葉だそうだ。そうするとこの言葉は、これを破る奴は赦さない、俺様の言うとおりにするんだ、というような神からの掟というよりも、人が生きるための指針、そのために大切なことはこれこれなんだよ、という道しるべのようなものなんだろうと思う。
だから守らないものを罰するためのものでもないし、ここにも守らないにはこんな罰を与える、なんてことは書かれていない。
人は神との関係を持つことに意味がある。それが大事なことなのだ。そういうことを人に知らせていることばなのだ。
だからこの言葉は、守れない私はなんとだめな人間なのだろう、というように自己嫌悪に陥らせるための言葉ではないのだと思う。また守れないあいつはだめなクリスチャンだ、ちゃんと礼拝を休まない自分こそ立派なクリスチャンだというふうに、人を区別し人を裁くためのものでもないだろう。
そうではなく、あの人もこの人も自分も、充実した人生を送るために、神のことを第一として、神の声をしっかりと聞いていきなさい、それがあなたにとっても私にとっても大事なことなんだ、ということを知らせてくれている、そんな言葉なのだろうと思う。
律法主義
しかし長い年月が経つうちに、だんだんと中身よりも外側を、形を守ることが大事になってきたようだ。戒めなんてのはだいたいそういうふうになる宿命にあるのかもしれないが、それを守れるものと守れないものとを区別するものさしとなってきたようだ。守っている自分はいい人間、守れないあいつはだめな人間、あるいは守れない自分はだらしない人間、なんて思う。
しかしこの10の言葉は、誰かをいい人間かだめな人間かと判断するための道具ではないはずだと思う。そうではなく人が神を見上げ、神の声を聞き、また隣人との関係を大事にして生きるように、それこそが大切なことだ、と教える神からの呼びかけなんだろうと思う。
偶像崇拝
10の言葉の中には、わたし以外のものを神とするな、また神の像も作るな、拝むなという、いわゆる偶像崇拝をしてはいけないということが出てくる。神でないものに従うこと。直接的には何か像を作ってそれを拝むことが偶像崇拝である。神は、人間が自由に作るような、人間が持ち運ぶようなものでもないし、また堅い動かない像でもない。神をそんな小さな、動きもない、冷たいもののように考えてしまうことのないようにということからも像を作ってはいけないと言われているのだろうと思う。
そんな風に、神でないものを神とすることが偶像崇拝だ。そればかりではなく、神でないものの声を聞くこと、神の声よりも神でないものの声のほうに従うことも偶像崇拝だろう。
例えば、今の社会は医者や弁護士や実業家など、お金をいっぱい稼ぐ人は価値があって、逆にホームレスの人や定職に就いていない人、障害を持っている人は価値がないというような見方をしていると思う。自分でもそんな思いがあって、稼ぎの悪い自分は大した価値がないような気持ちがある。
しかしイエスは娼婦や徴税人たちといつもいっしょにいた。障害を持っていることで社会からのけ者にされている人たち、また子ども達を大事にした。社会にとっては何の役にも立たないような、それどころか、邪魔でうるさくてわずらわしいだけのような者のことを、神の国はこのような人たちのものだと言っているのだ。
イエスは社会のモノサシとは全く違うことを言っている。そんな神の声に第一に聞いているかどうかなのだろう。それよりも社会的な常識やものさしの方を優先しているとしてら、それは偶像崇拝と言えるだろうと思う。
偶像崇拝は自分とは関係がない、それはいろんな像を拝んでいる他の宗教の人たちのことだ、というように考えている教会人もいるみたいだが、神の形の像を造ってはいない、それを拝んではいないからそれで偶像崇拝とは関係がない、と簡単には言えないのだろう。そんなことよりも、神の言葉を第一にしているかどうか、それが問題なんだと思う。
安息日
また安息日を聖別するという言葉がある。その日には労働をしてはいけないということになっていた。ユダヤ教の人たちは今でも厳格にこの戒めを守っているそうだ。ユダヤ教はエレベーターのボタンを押すのも労働になるということになっていて、安息日にはイスラエルのヘブライ大学のエレベーターは人の乗り降りには関係なく一階ごとに全部止まるようにして自動運転している、という話しが今でもテレビのクイズ番組にも出ることがある。何だかお笑いの種になっているが、厳格に戒めを破らないことを追求していくとこんなことになるのだろう。
労働しないで動かなければ戒めを破らないですむわけだが、しかし安息日とは本当はただ労働をしない日ではなくて、労働をやめて、それはお金を稼ぐ仕事というだけではなく、日常やっていることを含むみたいだけれども、兎に角いつもしていることを敢えてやめて、神の前に静まる日ということなのだと思う。
私たちはいつも何かに追われて、いつもいろんなことを考えて生きている。あれもこれもそれも、しなければいけないことがいっぱいある。そしてえてしてそのいろんなものに流されていつもいつもそわそわいらいらしてしまう。そうするとじっくりと静まって神の声を聞くこともできなくなってしまう。
聖別するというのは、特別にとっておく、分けておく、というような意味なのだそうだ。普段の生活とは違う別の日として、日常の仕事をひとまずやめて、脇に置いて静まる時、それが安息日なのだろう。だから神の前に静まることが本来の安息日なのだと思う。それを抜きにしてただ仕事をしたか、しなかったかということばかりに気を取られていては本末転倒だろう。そうなるとあいつは守っていない、俺は立派に守っている、なんてことになってしまうのだと思う。
神の前に静まりじっくりと神の声を聞くこと、それは恵みなのだと思うようになった。何もしないで静かに目をとじること、黙想すること、祈ること、それはとても大切なことだと最近思うようになった。何もしない時間は勿体ないような気持ちがあるけれども、でも何もしない時間はとても貴重な時、恵みの時なんじゃないかと思う。だから安息日の戒めは恵みを受けなさいという神からの誘いなのだと思う。
礼拝も本来はじっと鎮まり何もしない時間なのかもしれないと思う。
道しるべ
そんな風にこの10の言葉、また律法も神の恵みの中にいるようにという誘い、恵みからこぼれないようにという道しるべなのだと思う。十戒と言われて戒めという言葉が入ると、自分が守れているときには人を裁き、自分が守れてないと思うときには自分を裁いてしまうけれども、この神の言葉はは人を裁く道具としてあるのではないだろう。ここまでは合格、ここからは不合格というような境界線を定めるためのものではないと思う。そうではなく、山に登るときの道しるべのようなもの、頂上はこっちと書いている道しるべのようなものだと思う。神に従う方向はこっち、進みべき方向はこちら、というような道しるべのようなものだと思う。だから自分は合格か不合格か、どこまでいけば合格なのかと心配になってその境界線を探しても仕方がない。ここからは合格なんていう境界線はないのだと思う。自分がどこにいるかよりも、どこを向いているか、神を向いているか、神を見ているか、それが大事なのだ。この10の言葉は、神の向かって生きなさい、神の言葉を聞いて生きなさいという、私たちの生きるべき方向を教えてくれている、そんな言葉なのだと思う。