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礼拝メッセージより
「共に行く」 2015年9月13日
聖書:出エジプト記33章7-17節
錯綜
聖書の情報ってのは錯綜しているように思う。今日の箇所などもそうだけれど、いろんな資料があってそれをまとめているらしいけれど、話しの合間に突然違う話しが挟まっていたり、前の話との脈絡のない話しが突然始まったりなんてことがよくある。小説のようにまとまっていれば読みやすいのに全然そうなっていない。大きな流れに沿っていろんな資料を並べているけれど、細かい部分はよく分からなかったり、つながりがなかったり、矛盾していたり、あるいは同じことが繰り返し出てきたりするところもあるみたいだ。だから読みにくいんじゃないかと思う。もうちょっとうまくまとめられなかったのかと思ったりもするけれど、下手な小細工をするよりも、なるべく資料に手を加えないようにしたのかもしれないなとも思う。
なだめ
イスラエルの民が神の命令に従わず金の子牛を作ったことに対し、神は怒りを発し、それをモーセがなだめたことが32章から書かれている。民はかたくなだから自分は一緒に行かない、モーセ個人とは同行するけれどかたくなな民とは一緒に行かない、という主に対し、モーセはこの民と一緒に言ってくれるようにと願うと、主はその願いを聞き入れてくれた、という話しらしい。聖書教育にはそのように書いてある。
しかし困ったことに、モーセ個人とは同行すると書かれている箇所が見つけられない。聖書の中にそういう風に書かれているところを探し出せないでいる。分かる人は教えて欲しい。どこに書かれているんだろうか。
32章30節からがモーセの主に対しての赦しを願う話しになる。この民は大きな罪を犯した、けれど赦して欲しい、自分の命に代えても赦して欲しいと訴える。それに対して主は、私の告げた所へ民を導いて行きなさい、しかし自分の使いを遣わすが自分はいっしょに行くとあなたを滅ぼしてしまうかもしれないので行かないと言う。その後身に着ける飾りの話しを挟んで、33章12節からの訴えは臨在の幕屋での話しということになる。
ここではモーセは、あなたの道を示してください、この国民があなたの民であることも目に留めてくださいと願う。それに対して主は、わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えようと言った。モーセは、あなたご自身が行ってくれないなら上らせないでくれ、あなたが共にいってくれることでわたしとあなたの民は特別な民となるんだから、と言うと主はその願いを叶えると答えた。
最初に主が、モーセ個人とは一緒に行くけれど民とは一緒に行かないと言っていたということが書かれているところがやっぱり見つけられない。
14節の「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」というところが、モーセだけに対するメッセージだということなんだろうか。13節で、この国民があなたの民であることも目にお留めください、と言っていることに対する答であれば、国民と同行するということを言ってるんじゃないかと思う。15節の「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。」というのは、わたしだけではなくわたしたちみんなと一緒に、という意味に取れなくもないけれど、それよりも14節で自ら同行すると言われた主の言葉を受けて、あなたが同行すると言ってくれなかったら約束の地へと上らない方がましだ、あなたが言うようにあなたが同行してくれることであなたの好意がわかり、私たちは特別な民となるんです、と言っているように思う。
祈り
兎に角モーセの訴えにより主はイスラエルの民とその後も同行してくれることになったという話しだ。最初は滅ぼし尽くすと言われていた主は、結局は赦し、その後も共にいてくれるということになった。神はこのように人のの訴えを聞いてくれる、ということなんだろうか。
神に願うと言うことはいわば祈りなんだろう。祈りってなんだろうと常々思っている。少しは本も見たけれどこれぞという答は見つけられていない。こういう風に祈りなさいとか、誰それのために祈りなさいという話しはいっぱいあるけれど、祈りの本質についての本はあまりない。祈りとはなんだということの答がなかなか見つけられないでいる。
祈りというのは神を変えるのではなく自分を変えることだと聞く。それが今一番しっくりくる答えだ。
課題をあげて祈るとか、祈りを合わせるとかよく聞くけど、正直言うとよく分からない。その感覚がよく分からないという感じ。今日の聖書の中で、モーセと主と顔と顔を合わせて語ったと書いてあるが、そのような感覚にはなれない。話す事も口下手だが、祈る事も口下手だと思う。
でもやっぱり祈らずにいられない。ひとりでは生きていられない、だから祈るという感じだ。
モーセの祈りは結局は共に行ってくれということだった。自分達と共に行ってくれというのがモーセの願いだった。そしてこれが、つまり神が共にいてくれることを願うことこそが究極の祈りなんではないかと思う。自分に何か与えてほしいとか、自分をどうかして欲しいという願いももちろんいっぱいある。しかし神が共にいてくれることこそが一番なんではないかと思う。
イエスが産まれた時に、インマヌエル、神我らと共にいますと呼ばれると言われていた。イエスはまさに私たちと共にいるために生まれた。
いつでもどこでもどんな時でも神が共にいる。神が共にいるから、神だから私たちはひとりぼっちになることはない。私たちが生きる時も、死ぬ時も、死んだ後も、私たちは決してひとりぼっちになることはない。