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礼拝メッセージより
「尽きない」 2015年8月9日
聖書:出エジプト記16章16-36節
蓄え
少し前フィンランドだったかな、そこに留学していた人がラジオに出ていた。その中で、フィンランド人はあまり貯金をしないと言っていた。社会保障が充実していて国が面倒を見てくれるので何かあっても心配がないので貯金しなくても大丈夫なのだと言っていた。教育費も無料だと言っていたような気がする。
勿論税金は高いと言っていたけれど、すごくうらやましい、できることならそんな国に移住したいと思った。日本人は何かあった時のために個人個人が蓄えなくちゃいけなくて、ひたすらお金を蓄えることを目指していて、お金をいっぱい持っている者が成功者という風潮があるような気がしている。最近はほとんど聞かなくなったけれど、日本人はすっかりエコノミックアニマルになってしまっているような気がしている。これは貧しい自分のひがみなんだろうか。戦争ができるような法律を作ろうとしたり、あるいは原発を動かそうとしたりしているけれど、どちらも結局は金儲けの手段のような気がしてどうしたもんかと思っている。戦争や戦争の準備で儲かる人、原発を作ったり動かしたりして儲かる人が一所懸命になってやっているような気がしている。
そう言いつつ自分も儲け話がきたら飛びつきそうな、お金に目がくらみそうな気もしている。
お金を持つことで安心する、将来の不安を和らげることができるというような気持ちが自分にもやっぱりある。というか可能な限り持っておきたいという気持ちはかなり強い。
オメル
エジプトを脱出したイスラエルの民は、朝ごとに霜が消えた後の地表に、薄くて壊れやすい霜のようなものを集めてそれを食べることができた。イスラエルの人たちはそれをマナと名付けた、彼らは一人当たり1オメルを集めた、と書かれている。
オメルというのはこの箇所にしか出てこない言葉だそうだ。36節では1オメルは十分の一エファということで、そうすると約2.3リットルということになるそうだ。
しかし不思議な言い回しがある。16節では「それぞれ必要な分、つまり一人当たり1オメルを集めよ」とある。一人に1オメルと決まっているならば『必要な分』という説明は必要はないと思う。17節でも「ある者は多く集め、ある者は少なく集めた」とある。みんなが1オメルじゃないのかな。実は1オメルというのは2.3リットルという決まった量ではなく、各々に必要な分量ということになるような気がする。18節にも「オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことはなく」とある。なんだか、それぞれが自分の必要な大きさの升を持っていて、それをオメル升と言っているみたいだ。
オメルという言葉がいっぱい出てくるけれど、要するに一人一人に必要な分を与えられたということを伝えているようだ。
蓄え
マナはその日に必要な分だけを集めた。次の日まで残しておいてはいけないとモーセに言われていた。それでも残しておいた者がいたようで、次の日には虫が付いて臭くなった。しかし、安息日の前の日には安息日の分まで二日分を集めることができ、その時には次に日になっても臭くもならず虫もつかなかったという。安息日には、つまり土曜日には労働をしなくてもいいように準備されていたということだ。何人かは安息日にもマナを集めにいったけれども見つからなかったことが書かれている。
どうして命令を破って次の日まで残したんだろうか。次の日にも確実に与えられると思えるならば残す必要はないはずだ。そうすると次の日の心配をしたということになりそうだ。もし明日マナを集められなかったらと心配する気持ちがあるからこそ残そうと思ったのだろう。
明日は何があるか分からない、勿論その通りだ。明日も明後日も何があるかわからない、そうやって心配し始めると切りがない。明日なにがあってもいいように、将来何があってもいいように万全の備えをしようと思うと大変なことになりそうだ。いろんな心配が起こってきて、それのための備えをしないといけないとなると本当に大変だろう。
イエス
イエスが言われた言葉を思い出した。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養って下さる。」(マタイ6:26)
まるで空の鳥のように神はイスラエルを養ってくれたようだ。一日に必要な分を、時々二日分だが、その日に与えるという方法で与えた。次の日まで残しておいてはいけない、つまり蓄えてはいけない、と言われている。けれども必要なものを日毎に与えられるのであれば蓄える必要はないはずだ。日毎に与えられると思えれば、その神の言葉を信じられれば、何も心配もなかっただろう。
でも心配してしまう。これは人間の性なのかもしれないと思う。イエスが空の鳥を見なさい、と言われた時も、だから思い悩むな、悩まなくてもいいんだ、と言われている。でも悩んでしまうのが人間だ。手に入る内にいっぱい溜め込んでおこうと思う。いっぱい溜め込んでおけば将来の心配もなくなる、それだけ心配も減ると思っている。だからこそできるかぎり貯めておかないと、と思う。そうやって今はお金をいっぱい貯めようとしている。
マナは次の日までもたなかったけれど、お金ならば虫が食うことも腐ることもないので貯めほうだいだ。いっそお金なんてものがなくなればもう少しまともな社会になるんじゃないかと思ったりしている。お金じゃなくて大根や白菜を家中いっぱい貰っても食べきれないで腐るだけだから、そんなに欲しいとも思わないだろうし。
成長
神は、私が養うのだから、あなたの必要なものは私が与えるのだから心配するな、と言われているようだ。だからあなたは私が与えるものを受けなさい、明日のことは心配しないで、今日の糧を受け取りなさい、と言われている。
自分は受けるばかりでいいのかという気にもなるほどだ。しかし実は私たちは食べ物を自分の力で作り出すこともできない。種を蒔いたり水をやって世話をしたりすることはある。けれどもそれで成長させるのは人間の力ではない。人間の手の中で食べ物を作り出すこともできないし、人間の力で成長させることもできない。
昔から不思議に思っている。畑に種を蒔くと、小さい種からどうして大きな野菜ができるのだろうかと。水を吸って光合成をして、なんていう科学的な反応があって大きくなるというのは頭では理解できても、種を蒔いたらそこから大きな葉っぱができてくるのがとても不思議だ。そしてそうやって成長したものを人間は食べて生きている。自分の知らないところで大きくなったものを食べて生きている。
出エジプトをしたイスラエルの人たちは、神から与えられた食料を得て生かされたように書かれている。そして今の私たちも、自分のあずかり知らないところで成長したもの、つまり神によって成長させられたものを食べることで生きている。
今日
主の祈りでは日毎の糧を今日も与えてください、と祈る。本当は今日もというところの『も』はないそうで、日毎の糧を今日与えてください、ということだそうだ。
イスラエルの民は、神の命令通り、その日一日分を集めなさいといわれている。今日神によって与えられた、明日も明日の分を与えられる、そんな神との繋がりを大事にして生きるように、神がその日その日の分を用意してくれる、神が自分たちのことを心配してくれている、だから私たちは明日のことを必要以上に心配するのではなくて、毎日の糧を与えられることを感謝して生きていくように、と言われているのではないか。
尽きない
食べ物のことだけではなく実際私たちには心配事がいっぱいある。山のようにある。心配に押しつぶされそうになるようなこともある。眠れない夜を過ごすこともある。でも神さまは、大丈夫だ、そんなに心配しなさんな、必要なものは私が与えるから、私がいつもついているんだから、と言われているのではないか。
いろんなことを心配する、その合間にでも神の声を聞いていきたと思う。あなたのことを私が心配しているんだから、あなたはそんなに心配しなさんなという、そんな神の声を聞いていけたらと思う。
私たちの心配の種は尽きない、でもそれ以上に神の恵みは尽きないということなんだろうと思う。必要な食べ物、必要なお金、あるいは必要な人との出会い、神は私たちに必要なものをその都度きっと与えてくれる、だから明日のことを心配し過ぎないで今日与えられているものを感謝して生きなさい、今日を今を精一杯生きなさい、今日の聖書はそう勧めてくれているように思う。